黒の魔女

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黒の魔女

 ハナの体にマナがないということから、当初予定していた実験薬の試験は不可能であることがわかった。  そのため、臨床試験は一旦保留として、気分転換にハナの勉強をセインがみることになったのだ。  この世界の常識を学ぶために、ダークエルフの家庭教師との勉学が始まっていた。 「まずは読み書きからだな。文字を学習してもらう」  セインはそう言って、一枚の紙にペンを走らせ文字の羅列を書いた。  紙一面にびっしりと描かれた奇妙な文字の配列を見て、ハナは「おや」と思った。  五行十列の文字の並びの中、八列目と十列目のみ三行で文字が並んでいた。 「もしかして、これ。ひらがな表と同じ?」  幼稚園で学ぶひらがな表と配置パターンが同じな事にハナは気がついて、もしやと考えた。 「ねえ、もしかしたら文字、読めるかも。簡単な本ない?」 「何? ……簡単と言っても、本棚の本は薬学書ばかり……あ、ちょっと待っていろ」  セインは地下室に下りて行き、暫くたって古ぼけた本を片手に戻ってきた。 「これは、俺が幼い頃読んでいた子供向けの物語だ。読めるか?」  本を受け取ると、タイトルに並ぶ文字と、セインの手書き文字列を見比べた。 「……『く』……『ろ』……えーと……『の』……」  文字を指で追いながら、あいうえおの列に当てはめていく。 「……『ま』、……『し』? ちょっと違う……。ねえ、この文字、セインのリストにはないよ」 「ああ、それは『じ』だ。濁点が含まれている」 「……! じゃあ、やっぱり、文字の体系が同じだ!?」 「なんだと? だったら、最後の文字は読めるな?」  そこには、リストの『よ』にあたる文字が小さく描かれていた。  そして、はっとして、読み上げた。 「『くろのまじょ』」 「そうだ……。その物語は『黒の魔女』だ」  ハナは驚きを隠せなかった。  ついさっきまでまったく意味不明だった文字列が読めてしまったのだから。  それも、日本語の『あいうえお表』に対応している。  これならば、文字の形をあいうえおに変換できるよう頭に記憶させてしまえば、文字を読むことも出来ると思われた。  本を開くと、大きめの文字で物語が記載されているようだ。  リスト表にあわせて、ゆっくりと読んでいく。 「あ……る、……と、こ、……ろ……に……、く……ろ、の……ま、じょ……『か』……あ、これ『が』だ。えっと……」  一文字ずつ丁寧に読み上げて、拙くも物語を読み解いていくことが出来そうだった。  ハナは文字が読めたことに興奮して、ちょっと気持ちが盛り上がってきた。  そんなハナを、しばらくセインは驚きの表情で見つめていた。だが、とある事に気がついたセインは、小さく肩を振るわせ始めた。  児童向けの本を、拙く一文字一文字、声に出して読み上げる少女を見て、セインは少し笑っていたのだ。 「クッ、クスッ……ククッ」 「な、なに笑ってんだ」  ダークエルフの堪えるような笑いを拾って、ハナは本から顔を上げて、じとーっとにらみつけた。  そんな視線を受けて、いよいよ笑いを隠すこともできず、セインが小馬鹿にした表情でハナを笑い飛ばす。 「いや、だって、まるで子供……っ、ぷっ。ナリは立派なクセに……幼児みたいで……ギャップが……ぷぷっ」 「し、しかたねーだろ! 文字自体は、初めて読んでるんだからっ!」  笑うセインに恥ずかしさで紅くなりながら、ハナは声を大きくして抗議した。 「そうだな……ククッ、ほれ、続きを読みなさい」 「ったく! 笑うなっつーの! ……い、……ま、……し、た」 「上手に読めて偉いですねー、ぷ、くふっ」  セインが茶化しては、笑いの種にして噴き出していた。 「またどつかれてーのか、あ゛?」 「……スマン」  ハナの鋭い眼光がセインをズブリと射抜いた。  ドスの効いた声の威圧で、一気に縮こまったセインであった。    ********** 「黒の魔女、読み終えたー」 「ああ、まさか本当にこうもあっさりと読めるとはな。驚きを隠せない」  ハナは『黒の魔女』を読み終え、ふうと一息ついた。  黒の魔女の物語は、要約すると以下の様なものだった。  ――ある所に、黒の魔女と恐れられた真っ黒の女が居た。  その魔女は忌むべき呪いで人々を困らせていたが、一人の英雄が立ち上がり、旅先で仲間と出会って魔女をやっつけるというものだった。 (ま、ようするに桃太郎だな)  と、ハナは物語を噛み砕いて理解した。 「これは、御伽噺(おとぎばなし)なのか?」 「……ああ、そうだな。大半はそういう認識だ」  何気に聞いた質問だったが、セインの言い方はどこか含みがあった。 「一説には、その物語は本当にあったこととも言われている。だが、真実は不明だ」 「ふうん? そういや、桃太郎もモデルになった人物は実際にいるとかなんとか聞いたことあるな……そういう事かな」 「モモタロ? なんだそれは」 「私の世界の童話。なんだったら、これのお返しに聞かせてやろうか?」  ハナが黒の魔女の本をとんとんと指で叩いて、セインにお返ししてやろうと笑う。  その表情を見て、セインはジト目で拒否した。 「結構だ。お前の顔が『仕返し』してやろうと言っている」 「……ちっ」  ハナは日本語で書いた桃太郎をセインに音読させてやろうと狙っていたらしいが、看破されたようだ。 「ところでセイン。薬の試験はどうするんだ。このままじゃ私は結局、何もお返しが出来ない。それはイヤだ」  考えてみれば、今のところ自分はセインから与えられるばかりで、セインの役には立っていない。  マナがない事で試験薬のモルモットにすらなれなかったのだから。 「……腹にイッパツ、きついお返しは貰ったが」 「そ、それはお前が悪い!」  意地悪く笑ってから、ふむ、とセインは腕組みして考え込んだ。  字が読めるようになったとはいえ、まだまだセインからは学ばなくてはならないことは多い。  もうしばらく、ここに御世話になるのだから、自分の仕事を、対価を支払いたかった。  それが東雲ハナの流儀であり、礼儀であったからだ。 「他の薬はないのか? 魔法系のはできなくても、さっきみたいなキズ薬とかなら効果は試せるよな?」 「まぁ、あるにはあるが」 「なら、それの試薬を私で試すのはどう?」  キズ薬の効果は抜群だった。ナイフで切った親指の痛みももうないし、血も止まっていた。  そういう一般的な効果のある薬品なら十分被験者になれると思われた。 「二つある。一つは睡眠薬だ。効果時間の検証と副作用を調べたい」 「睡眠薬か……飲みすぎるとヤバいとか聞くよね……ちょっと怖いところだな」  ハナは副作用もある可能性から、睡眠薬は少し警戒心がわいた。  ミステリードラマとかで睡眠薬の過剰摂取で死亡なんてシチュエーションもあるくらいだから、睡眠薬というのは薬としてキケンな部類なのかもしれないと考えたのだ。 「ならあと一つの、飲むと発情する媚薬になるな」 「睡眠薬でお願いします」  即決であった。 「ってか! 媚薬とかっ! セインはどういう薬を作るつもりなんだよ!?」 「媚薬は金になるんだ。俺の意思うんぬんではなく、商売だ」  なんだか怪しい商売やってるなーとハナは冷や汗を垂らして頬を引き攣らせた。  本当に睡眠薬なんか飲んで大丈夫だろうか。  セインは結構いたずら好きな傾向があるし、さっきなんかキスまでされた。  あまりセインに心を許しすぎると危ないかも知れないと、女として若干警戒心を持った。 「……じゃあ、セインはなんで錬金術師やってるんだ? 商売のためだけなのか?」 「……違う。俺にだって、目標がある。作りたい薬品があるんだ」  探りを入れたハナの質問に、セインは沈んだ声で回答してくれた。  重みのあるトーンは、セインの作りたい薬品というのが、どれほど重要なのかを物語っているかのようだった。 「興味本位だけど、どんな薬を作りたいの?」 「……」  その質問に、セインは応えてくれなかった。  彼の表情は仮面のように無表情で、ハナを見てはいなかった。返事をするつもりがないのだとハナは理解した。  ――人には言えないような薬品なのだろうか、もしかすると毒薬かもしれない。  ハナはセインの奥底にはまだまだ入り込めていない事を再確認し、そこを追求することは諦めたのだった。 「地下で調合する。しばらく時間がかかるから、好きにしていろ。出来たら臨床試験を開始する」 「うん、分かった」  セインは地下室に消えていく。  ハナは暫く『黒の魔女』に目を落とす。  今ならいくつか本も読めるかもしれない。  そう思って、本棚の本を適当に広げたのだが、専門用語や異世界独特の表現、地名や薬草の名前などハナには理解できるものではなかった。 「ほんとに、私……元の世界に帰れるのかな……」  異世界に来る前には感じたことのない感覚が黒髪の少女にまとわりつく。  それは『不安』だ。  もしあの期限切れ牛乳が、この世界への片道切符だったらどうしたらいいだろう。  この世界で生活していかなくてはならないとしたら、自分はどういったことができるのだろう。  このままセインの許に、いつまでいるのだろう……。  セインは、自分の事をどう思っているのだろう……。  嫌われてはないと思う。  だって、自分が出て行こうとしたときに、あんなことまでして、自分に害はないと教えてくれた。ここにいていいと言ってくれたのだから。  それに、嫌いな人間に、キスなんてしない――。  ハナの脳裏に、あの唇を重ねた瞬間が蘇ってくる。  途端に恥ずかしさがこみ上げて、ハナはブンブンと黒髪を振り乱して記憶を振り払う。 「……掃除でもしよ……」  何かしてないと脳内スクリーンに衝撃的な瞬間が何度も再生されそうで、ハナは逃げ場を探すように、部屋の汚れを求めるのだった。    **********  暫くして、セインに呼ばれたハナは昨夜横になった簡易ベッドに腰掛けていた。  セインが擂ったり、溶かしたり、熱したりをした結果の薬は小さなビンに入れられた、薄い青の液体となっていた。 「飲み薬、なんだな」  色合いとしては、ハワイアンブルーとでも言おうか。明るく透き通った液体が百ミリリットルほどの小ビンに入っているのを見て、ハナは『なんたら製薬の何ビタンD』を思い出した。 「ポーションという。この世界の薬品は大抵液状にした水薬だ」 「ああ、ポーション。なんか聞いたことあるわ」  小ビンを受け取り、そっと臭いを嗅ぐと、なんだかツバがわきそうな酸っぱい香りがした。 「全部飲め」 「……これ、マズい?」 「それもお前の口から聞きたい感想の一つだ。まぁ、予測の範囲だが、苦味はあるだろうな」 「うぇー」  露骨に嫌そうな顔をするハナだが、やると言った手前飲まざるを得ない。  薬なのだから、苦いものであるだろう。  はぁ、と息を吐いてから、覚悟を決める。 「よし。飲むぞ」  小ビンに口をつけ、まずは一口飲み込んだ。  舌に乗った青の液体は、セインの言う通り苦味があった。だが、覚悟していたよりは苦味が無い。舌触りも滑りやザラつきはなく、真水のようにサラリとした感触だった。  そのまま喉に落とし込んでいくと、食道を流れ落ちる感覚から、それが全身に溶け込んでいくような、吸い込まれるような感覚がした。 「……!」  ハナはその感覚に覚えがあった。  喉を通ると同時に、液体から気体へと変わり、身体の中に吸い込まれていくようなそれは、あの牛乳を飲んだときと同様であった。 「これって……!?」 「なんだ、どうした。まだ残っているぞ、全部飲め」  驚くハナにセインも怪訝な顔をした。  ハナはポーションをもう一度口につけた。今度はビンの中身を全て飲み干した。  そして、喉越しの感触を再確認して、間違いないと確信した。  このポーションは、あの時の牛乳だと。 「セイン、私はポーションって始めて飲んだんだけど、全部こんな喉越しなのかな?」 「どんな感じだ?」  鋭い瞳がハナを見つめ、観察していた。研究者の目をしていた。  ハナは、この世界にやってきた経緯を話し、あの日飲んだ賞味期限切れの牛乳と同じ感覚があったと告げた。 「……たしかに、ポーションはより早く効果を発揮するために、体内に入ると共に気化して全身に染み入る。その感覚はどのポーションもほぼ例外が無い。つまり、お前がこの世界にくるキッカケになったミルクは、ポーションであった可能性が高い」  ハナの脈を取りながら、セインは分析した意見を述べた。 「なんで、私の家の冷蔵庫に、この世界のポーションがあったんだろう。それも牛乳に偽装して……」  ハナは当然の疑問に突き当たったわけだが、その答えはセインも黙るしかなかった。  答えの出ない疑問は、回答を求めるための材料が足りていないのだ。  現時点では、その答えを見つけることはできないと考えた。  だが、それでもあの日飲んだ牛乳がポーションであった可能性があるというだけでも、謎を解くひとつの手がかりになりそうだ。  ハナは、ちらばったパズルの一ピースを見つけたようで、ひとまずは前進しているのだと納得させた。 「他に、薬を飲んだ感想を色々と聞きたいが、大丈夫か?」  セインの瞳はハナの視線と交わって、調子を窺っていた。  気遣っている、と云うよりは業務的な色合いを見せていたことから、やはりこれはセインの仕事なのだとハナは理解した。 「えっと、まず味だけど思ったより苦くなかった。臭いはちょっとキツいかな。近づけただけで鼻にきたし」 「……ふむ。今の具合はどうだ」 「……あ。えっと睡眠薬だよね? 今のところ特に何も……」  ハナは眠気がすぐにでも来るのかと思ったがそうでもないらしい。  今のところ、意識はハッキリしていた。 「眠くなりはじめたら、教えるんだ」 「……うん」 「他には? どんな些細な事でもいいぞ」 「んー。……えっと」  ハナは言おうか、少し悩んだ。  セインはどんな些細な事でもいいと言っている、どんな情報でもいいとは言うが、薬に直接関係あるかどうか、分からない所だったので、言うか迷ったのだ。  しかし、まったくの無関係ではないかもしれないし、実験としては細かいデータはなんでも欲しいだろう。  なので、ハナは言って見ることにした。 「ちょっと、こわい」 「……え?」  ハナの言葉に、セインが表情を戻してぽかんと口を開けた。 「……副作用とかあるかもしれないんだろ」  この不安は、きっと薬を飲んだこと自体には無関係だろう、そんな風に思うが、ハナは素直に今の現状をそのまま伝える事にした。  医学や、ましてポーションの知識なんてないのだから、素人の考えで無関係と思っても、研究者には有益なのかもと思ったからだ。 「全然知らない世界に来て、何もかもわかんなくて、不安になる」 「……」  ハナの告白に、セインは言葉は出さずに頷いた。  少し困ったような顔をしていて、セインもどう応えたものかと悩んでいたのだろう。 「……あ、眠いかも……」 「横になれ」  うっすらと意識が溶けていくような、重いまどろみが乗っかってきたようだった。  ハナから一気に身体の力が抜ける。 「あー、やば……寝そう。寝そう……」 「寝て良いんだ」  セインの低い声が心地良い。  大きな手のひらがハナのおでこに当てられ、黒い前髪を軽くかき上げた。  セインの体温がハナに伝わる。  セインはそのまま手を当てたまま、彼女の名前を呼び続けた。 「ファナ」 「うん……」 「お前は必ず家に帰れる」 「……ん……」  セインの手が優しく少女の額を撫で、落ち着いた声を響かせていく。低く優しい音色は、ハナを包む睡魔を後押しする。 「ファナ」 「……ん……」 「ファナ……」 「…………」  少女が眠るまで、セインは彼女の名を呼び続けた。  やがて、ハナが心地よい寝息を漏らし、セインの呼びかけに応えなくなってから、セインは、少女の額から手を離した。 「眠ったか……。十五分と言ったところだな。効果は問題ない……。約三時間で目を覚ますはずだ……」  ベッドに横たわる黒髪の少女に、掛け布団をかけてやると、その寝顔にダークエルフが暫し目を留める。  静かな寝息を立てるハナの寝顔は安らかであった。 (せめて、その不安を夢の中に持ち込んでいない事を望む)  セインはハナの黒髪を見て、それから彼女の包帯に巻かれた指を見た。 「黒の魔女、か」  呟いた声は少女には届かない。  セインは地下室から上がり、その戸にカギをかけた。  少女は暫く目を覚まさない。  黒い肌の青年は、軽く荷造りをして家から外出した。その黄金の瞳は、幽かにゆらいでいたが、それは本人でさえ気がつかない事だった――。
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