バブル時代に

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預金通帳を残し彼は出て行った。 その背中を見送り、泣くのをこらえた。 彼は私に愛を、あの人に情を注ぐのだ。 死に行く元妻の懇願を聞き流せるような情のない男を、愛したつもりはない。 これからは仕事を終えて二人で歩く家までの道のりの会話や、 色が変わっていく夕暮れの町、肩を寄せる日没後の薄闇。 もうあの人を待つこともない。 私はまたベランダで一人外を眺めている。 夕暮れの町はすっかり暗くなり始めていた。 まだかなあ、とため息をつく。 今では待たされる不安のほうが楽しみよりも大きくなってきていた。 自転車のライトが見えた。 しばらくすると階段を上がってくる足音。 「ただいま」 「お帰りなさい」 顔も上げずに靴を脱ぎ棄てさっさと自分の部屋に入っていく。 「手を洗ってご飯ね」 私はドアに向かってそう声をかける。 「あー腹減った。やったー肉だ」 あの人を見送った時まだ私よりも背が低かったこの息子も、今では私を見下ろして喋るようになった。 お父さんは私も息子も愛してくれた。 お父さんは私たちを捨てたのではなく、元の場所に戻っただけ。 たとえ誰が何と言おうとも、あの人は私を愛してくれた。それは間違いであったかもしれない。 だけども、人間は間違いを犯してしまうのだから。 この子はあの人と私の大事な愛の記録。 お父さんと一緒にいてお母さんは幸せだった。 それを言うといつも 「もういいよ」 めんどくさそうに答えるけど、その顔が少しうれしそうなのをお母さんは見抜いているからね。 私はもう待つことはしない。 この子はいずれ私の手元を離れる。それまでの間精一杯の愛情を注ぐのだ。 何年越しかであの人に会ってもおたがいに清々しく言葉を交わせるように。 私たちは自由な関係でいいのだ。 今も私の胸に残る思い出はあのひとと二人で歩いた薄暮の町。 ネオンが光り始めるその時間に、私たちの恋の思い出は積み重ねられた。 喧騒と様々な匂いと鮮やかな色どり、ひしめき合う人の波。 手を握ったり、腕を組んだりしながら歩く街。 私たちの情熱はあの薄暗がりと鮮やかな色彩のネオンに彩られ燃え上がった。 今は一人夕焼けから薄暗がりへと変わる時間をベランダで眺めながら。
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