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「グルルル・・・」
そして遂にこれまで気付く事の無かったシエルの存在にレインが気付いてしまった。
ゆっくりとシエルの居る方へと向き直り、そして低い唸り声と共に彼女を睨み付けて来る。
しかしシエルはと言うと、レインと対峙したままその場を動こうとしない。
逃げようとするでもなく、戦おうとするでもなく、ただその場に立ち尽くしているだけだ。
「ったく、奴が他の連中を攻撃してる間にさっさと逃げときゃ良いものを。さっきから何をやってんだアイツは。死にてぇのか?」
そんな彼女の姿を見て瓦礫の影からそう言ったのは、先程までシエルと共にレインの事を色々と話していたあの男だった。
どうやら彼は何とかここまで生き延びていたらしい。
現時点での生き残りは俺とレイン、そしてあの女だけだ。
だが、一度レインの奴に睨まれたらもう助からない。
今の奴は自我を持たない魔物と同じ。
敵味方の判別なんか出来やしないし、他の奴等と同様、あの女もグチャグチャのミンチにされて終わりだ。
巻き添えを食うのはごめんだし、そうなる前に俺はもっと遠くに隠れておかないとな。
「グオアアアァァァ!!」
ここに来てから何度も聞いたあの凄まじい咆哮を上げ、レインはシエルの居る方へと近付いて来る。
シエルを肉塊にするべく、一歩、また一歩とその巨大な体で歩みを進め、こちらに向かって近付いて来る。
今の彼はまるで死神だ。
シエルや他の者達にとって死を与える存在である彼との距離がゼロになった時、それは自らの命が尽きる瞬間である事を意味している。
彼を前に、あの咆哮を前に、恐怖を抱かない者など存在する筈がない。
しかしシエルは違ったのだ。
他者を威嚇するあの咆哮は、彼の心の悲痛な叫び。
獲物を睨み殺すかのようなあの鋭い瞳の奥にあるのは、彼が抱える深い悲しみ。
他者を殺し、暴れ回るレインのあの姿がシエルには酷く悲しく、そして辛そうに見えたのだ。
だから彼を恐れる事も、拒絶する事も、シエルはしなかった。
やがてシエルの目の前までやって来たレインがその巨大な腕をゆっくりと振り上げ、攻撃の体勢に入る。
そして次の瞬間、不快な音と共にシエルの体は肉塊になる筈だった。
しかし、そうはならなかった。
肉が引き裂かれる音も、骨が砕ける音も、シエルの悲鳴も、何も聞こえて来なかった。
それまで身を隠し、この場から逃げようと動いていたあの男がその事を不審に思い、シエル達の方を振り返ってみると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
レインが振り上げた腕をシエルに触れる直前で停止させ、彼女の事をジッと見つめていたのだ。
シエルが何かをしたのではなく、レイン自らがその攻撃を中断したようだ。
「ば、馬鹿な!?あのレインが攻撃対象を前に自分から攻撃を中断するなんて。奴の力の制御はこれまでインスペクターはおろか、本人にさえ出来なかったっていうのに。あいつ、一体何をしたんだ?」
瓦礫の影から男が見守る中、レインはゆっくりと腕を降ろし、シエルに問い掛けて来た。
「ナ、ナゼ、ダ・・・」
聞き取り辛い片言のその言葉の後に、シエルは一言だけ。
「あなたが凄く悲しそうな目をしていたから」
その言葉を受け、数秒間の沈黙の後、レインは静かに目を閉じた。
すると彼の巨大な体から魔物が消滅する時と同じ真っ黒な煙が勢い良く噴き出し始め、体がみるみるうちに小さくなっていった。
やがてその煙の向こうから元の姿になったレインが現れる。
そして彼は再びシエルに問うた。
「お前、名前は・・・?」
「シエル」
自分の事を真っすぐに見つめて来るシエルの目を見ながら彼は言った。
「そうか、シエル。アンダーアルカディアに来て以来、今まで俺の事を恐れる奴は居ても、そんな風に見てくれる奴は居なかった。久しぶりに俺という存在を認識して貰えたような気がしたよ。お陰で僅かに残っていた自分自身の意識を呼び戻す事が出来た」
そしてレインはこう続けた。
「俺を止めてくれてありがとう」
普段からレインは滅多に笑う事などないのだが、この時の彼は随分と穏やかな表情を浮かべているように見えた。
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