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「あ……」
身体が深く沈みこんだままだった本間部長の椅子が、記憶が蘇るとともに身を起した所為で、ギシリと籐の音をさせ、静かすぎる部屋に響いた。
「君、だったか。一人だけ居た。うちの部署希望」
「思い出して下さったんですね。有難うございます!」
また状況そっちのけで嬉しそうな顔をした健流を見て、本間部長は呆れた顔をしたが、今度は咎めはしなかった。
「……少し話は逸れるが、機会が有れば聞きたいと思っていた。入社して直ぐ希望に人事なんて書いたのか」
「理由、ですか? 勿論、身の程知らずは承知の上です。社内でもキャリアと信用を得ないと行けない部署だと重々解っています。
だけど、あくまで希望との事だったので、本心を書きました!何年後、どれだけ経っても構いません。僕がこの会社で少しでも役に立てて、居続ける事が出来て信用して貰える時が来たら、異動で行ける事が僕の、夢です」
健流は話しながら、本間部長に歩み寄っていた。
「そんな、新人が夢と希望を持って目指す部署じゃない。君の能力なら、営業でも企画でもトップを目指せるだろ」
「僕は社会に出て、右も左も解らないですが、この会社に入って感じたんです。皆さん良い方ばっかりで。雰囲気や環境、何より人が……入って良かったと思います。お世辞もよいしょもないです」
健流は深いグレーの瞳を爛々と光らせ、本間部長を見つめながら語り続ける。
「採用したり、部署決めしていこの会社の人事部で働きたい、と思ったからです」
「うちの部署で、全て決めてる訳じゃない」
「勿論解っています。だけど、尊敬してるんです。そこを司っている、方を」
(あなたは採用を自分のタイプで採るような人じゃない)
「だから僕は尊敬してます。本間部長を」
(臣の能力と人柄を見抜いて、選んだあなたを)
暫くの間、本間部長は一言も発さず、ただ健流と見つめ合った。
「それが、理由です。でも僕は、残念ながら本間部長に面接見て貰ってはいないので選んで頂けなかったですが」
健流が残念そうな表情をしながらも、屈託ない笑顔を浮かべる。
その顔を見てつられたように、ごく僅かだけれど、本間部長の表情が崩れた。
今日出会って、初めて。
「あ、すみません!つい夢中で、自分の立場を忘れて」
健流は慌てて頭を下げた。
「……君は、」
本間部長が立ちあがったと同時に、また籐の軋む音と、大きなため息が聞こえた。
健流が床のカーペットをひたすら見つめていると、背中を叩かれた。
ふと顔を上げると、それは本間部長の手では無くて、メニューの冊子だった。
「何を飲むか、好きな物を選ぶがいい」
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