ナイフ

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ナイフ

「どこか行きたいところがあるのか?」  ドニスとフアナは旅の支度を整え、すぐに小屋を出た。  昨夜はゆっくりしてしまったから、追っ手に距離を詰められている可能性があった。 「いいえ。特に行きたいところはありません」 「ホントは王都にでも連れて行ってやりたいんだが、ほとぼりが冷めるまでは無理だ」  王都は人やものに溢れた豊かな街だ。この世の楽しみがたくさん集まっていて、一度王都を知ると出られなくなってしまう。外界を知らないフアナに見せてやりたかった。 「王都にお住まいなのですか?」 「ああ、妹とな。家と言えるようなところじゃないが……」  王都に住んでいるイコール裕福ではない。富のおこぼれによって、貧しい者も生活が可能になっている。 「妹さんがいらっしゃるのですね。あ、お一人にされて大丈夫なのですか?」 「やつは俺よりも、しっかりしてるんだよ。お金は渡してるから、しばらく留守にしたって平気さ。むしろ、俺がいなくて清々しているかもな」 「ふふ、ご自慢の妹さんなんですね」  口ぶりから、ドニスが妹を大切に思っているのが伝わってくる。 「まあな。とはいえ、今回は下手こいちまったからな……。いつもより、家を空けることになるかもしれねえ……」  ドニスは腕に矢傷をさすった。 「心配ですね……」 「ああ……」 「いずれ、妹さんを紹介してくださいませんか?」 「ソニアを?」 「はい。ドニスさんよりもしっかりしているというなら、本当に素晴らしい方なんでしょう?」 「ははっ……そうだな。すげーやつだよ、あいつは。何でもできるから、将来は博士にでもなってるかもしれん。よし、無事逃げ切ったら、王都へ戻ろう。妹に会わせてやる」  フアナに気を遣われてしまったようだった。  ドニスは情けをかけられるのは惨めだと思っていたが、全然そうではなかった。彼女に気を遣われるのは嬉しく、温かい気持ちになれた。 「止まって」  ドニスは突如立ち止まって、フアナを制止する。 「何かありましたか?」 「狼だ。囲まれてる……」 「え……」  ドニスは剣を抜く。  この国で兵士に支給されている一般的な剣だ。ドニスは兵士になったことはないが、拝借してそのままになっている。  狼の姿は見えない。茂みに隠れているようだった。  この辺りは狼が出没する地域で有名だったが、追跡者が逃れるためこの道を選んでいた。 「離れないで。一気に突っ切る」 「は、はい……」  ここは「お前は俺が守る」とかかっこつけるべきなのだろうが、ドニスはそんな邪念を抱く余裕がなかった。  狼の群れに遭遇して無事だったことはこれまでになかった。いつも、何を犠牲にするかを考え、それを犠牲にすることで助かっていた。  しかし今回は犠牲にするものがない。フアナをかばいながら、脱出しなくてはならない。  フアナは鞄からナイフを出していた。何の変哲もないナイフだ。護身用にはなるが、狼はそんな小さい刃を恐れない。  ドニスは護衛の仕事もするので、荒事には慣れていたが、決して剣の腕が優れているわけではない。フアナを守り切れるか問われれば、限りなくノーに近い答えしか出せないだろう。  この深い森にいったい何匹の狼がいるのだろう。茂みからは低い狼のうなり声が響いている。 (くそっ……。震えるなよ、俺の腕……)  生まれてこの方、こんなに緊張したことがなかった。決して失敗できないというプレッシャーがドニスを支配する。  狼はすぐには襲ってこなかった。数で勝っている狼側が有利。ゆっくりいたぶってやろうという魂胆だろう。 「荷物は全部捨てろ!」  ドニスは盗んだお宝の入っている袋をその場に投げ捨てる。フアナは戸惑っていたが、ドニスにならって荷物を捨てた。  そして、ドニスはフアナの手をつかんで走る。  当然走る速さは、狼に勝てるはずがなかった。一匹が茂みから飛び出してくる。  ドニスは噛みつこうとする口を剣で防ぎ、そのまま狼をはたき落とす。 「止まるな!」  続いて飛び出してきた狼を剣でなぎ払い、フアナの腕を引っ張る。  息を切らしながら、二人はひたすら走り続けた。  狼たちがこれくらいで諦めるはずはなく、再び襲ってくる。  ドニスは器用に剣を振るい、狼をいなしていたが、突然横から飛び出してきた狼に対応できず、体当たりを食らってしまう。 「ぐあっ……」  思わぬ攻撃に剣が手から離れてしまう。ドニスは衝撃のままに地面に倒れ込んだ。  そこに一匹が飛びかかり、ドニスに馬乗りになる。 「このっ! やめろっ!」  ドニスは狼の口をつかみ、その鋭い牙で噛みつかれないよう、必死に抵抗する。  突然、その狼がうめき声を上げて、飛び退いた。  フアナだった。持っていたナイフが赤く染まっている。ドニスを助けようと、狼の体を突き刺したのである。 「あ、ありがと……」  フアナが迷わず、獣に刃物を突き立てられる人とは思っていなかったので、ドニスは少し驚いていた。 「どういたしまして」  さすがにこの緊迫した状況で、にっこり笑うということはしなかったが、フアナは取り乱したりせず冷静だった。  フアナの手を借りてドニスは立ち上がる。 「大丈夫ですか?」 「ああ、なんとか」  可憐なお嬢様に見えて、案外肝は据わっているのかもしれない。  フアナの手を握っていると不思議と安心できた。自分は気負いすぎていたようだ。危機的な状況であるが、冷静さを失っては事をし損じてしまう。もっと心を落ち着けなければ。 「あ、あの、手を……」 「ごめんっ!」  握ったままになっていた手を放す。  さっきまで冷たくなっていた自分の手がじんわりと温かい。 「川を渡れば追ってこないはずだ。そこまで逃げよう」 「はい!」  その声は力強かった。希望を抱いている。 「不思議な人だ」  ドニスはつぶやいた。  彼女は独特な雰囲気を持っていて、出会ってから心を動かされっぱなしだ。しかし嫌な感じはしない。むしろ心地よい。  一人で全部なんとかしようと思うのはやめた。前方をドニスが担当し、後方をフアナが受け持つ。二人で協力して、絶えず襲ってくる狼を撃退していく。  ついに川が見えてきた。 「あれだ! 川を渡れば!」 「え? 橋は?」  川はあれど、橋がなかった。 「この辺りに橋はない。だから、狼も追ってこないはずだ」  橋がないということは、川に入って向こう岸まで渡らなければいけない。川はそれなりに大きく、川に入って動きが遅くなっているときに襲われたら大変なことになる。狼が川に入ってこないことを祈るしかなかった。  ドニスはずぶずぶと足から川から入っていく。流れはそれほど早くない。これなら泳いで渡れそうだった。 「フアナ。さあ、早く」  フアナに続くよう促すが、その足は止まったままだった。 「フアナ?」 「私……泳げないんです……」  これは大きな誤算だった。  ドニスは小さいころから川遊びが好きだったから泳げるが、女性はそういうわけもいかない。  そのとき、狼の吠える声が聞こえた。  そして一斉にこちらに飛び出してきた。  川原は開けていて隠れる場所がない。逃げるには川に入るしかなかった。 「あ……ああ……」  フアナは川に入る勇気が持てず、立ち往生していた。  後ろからは狼たちが迫っている。 「くそっ!」  ドニスは引き返してフアナのもとへ向かう。  剣をめちゃくちゃに振るい、追い払おうとするが、狼はまるで動ぜず、どんどん距離を縮められてしまう。 「うがっ……」  気づくと腕を狼に噛まれていた。すでに囲まれ、あちこちから攻撃を受けている。 「ドニスさん!」  フアナがそれに気づき、ナイフを突き立て、狼を払いのけてくれる。 「くっ、このままじゃ……」  辺りを取り囲まれ、川に飛び込もうにも、その前に組み付かれ、噛み殺されてしまうだろう。 「ドニスさん、私を置いていってください」 「え?」 「私は大丈夫です。先にいってください」 「そんなことできるわけないだろ!」  当たり前だ。一人で逃げられるはずがない。 「できます。ドニスさんは泳げるのですから」 「な……」 「狼の相手は私ができます。だから先にいってください!」 「何を言って……」  その真剣な目は、冗談でこんなことを言っているわけではなかった。 「……いいのかそれで」 「はい」 「信じていいんだよな? あとから来るんだよな?」 「はい!」  到底信じられる話ではない。  しかし、そう力強く返事をされては受け入れるしかなかった。 「……くっ! 絶対、人を連れて戻ってくるからな!」  ドニスはフアナに背を向け、走り出した。  狼も突然のことに追いかけるのが遅れ、ドニスに川に飛び込まれてしまい、追えなくなってしまう。  こうして狼の視線が一つに集中することになる。  皆が残されたフアナを目にしていた。 「ドニスさんは逃げられたようね。あとは……」  フアナは持っていたナイフを構える。 「お父様にいただいたこの命……。決して無駄にはいたしません!」  狼たちは一斉にフアナに向かって飛びかかった。
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