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「社長、いらっしゃいますか……?」
「入りなさい」
誰が来るのかわかっていたかのように即答するアイビー社長。探査魔法で探っていたんでしょうか?
中に入ると、彼女は小さなベッドの上で仰向けになって天井を見つめていました。船の狭い寝台でも肉体的に五歳の社長にとっては広々としています。
私とモモハルは反対側のベッドに座ろうとしました。けれど社長が自分のベッドの端を叩いて「ここに座りなさい」と指示します。
言われた通り座った私達は、気まずい空気の中、ただ沈黙しました。
ここまで来ておいて何を言えばいいかわからなくなってしまった。モモハルはともかく、私は結果的に社長の四百年の努力と千年近い時をかけた願いを踏み躙ってしまったのですから。
そんな私の内心を見透かし、社長は先に切り出しました。
「ナデシコのことなら気にしないで。これは彼女の意志よ。私も納得して決めたんだから、貴女が気に病むことは無いの」
「……すいません」
「謝らなくていい。二度言わせないで」
そう言われてしまっては、もう何も言えません。励ますつもりで来て、逆に励まされてしまうだなんて。
「むしろ感謝してる。私の真意がわかっていたのに、貴女はソルク・ラサを使おうとしてくれた。その気持ちだけで十分」
「社長とナデシコさんを見ていたら……他人事だとは思えなくなって」
「自分とクルクマに重ねたのね」
「はい……」
災呈の魔女に関する資料を読んでいくうち、気が付きました。彼女があんなことを嬉々として行ったはずがないと。凶行に走った理由はわからない。でも絶対に悔んで、自分を蔑み苦しんでいるはずだと。
そう思ったら、ナデシコさんを苦しみから解放してあげたいという社長の気持ちに強く共感しました。
本当はあの時、クルクマを殺してしまっても仕方が無いと思っていた。
それで彼女を後悔や自責の念から解き放ってあげられるならと。
「でも、殺せなかった」
「……」
そうです。ナデシコさんも、クルクマも、結局殺せなかった。彼女達の苦しみも、罪も、晴らしてはあげられなかった。
そんな覚悟、私には到底無理だった。
俯く私の左手を、モモハルの右手が握ります。
「モモハル……」
「……スズはだれも殺さないよ」
「そう……貴方が言うなら、安心だわ」
繋いだ手に、アイビー社長も自分の右手を重ねてきます。
お互い、まだ相手の顔は見られません。
「この繋がりを大切にしなさい。相手が誰であろうと、どんな理由があろうと、自分から断ち切ろうとなんてしなくていいわ。私と同じ間違いは犯さないで」
「……はい」
「わかった」
頷いて、空いているもう一方の手をさらに社長の手の甲に重ねる私達。
「じゃあ、しゃちょーもずっといっしょだからね」
「そうです。勝手に遠くへ行かないでくださいね」
「ええ……ありがとう」
彼女の小さな手と声は、まだほんの少しだけ、震えていました。
スズランとモモハルとロウバイはメイジ大聖堂へ帰った。ナスベリには早速北の大陸に前線基地を作る準備を始めさせている。当然、ビーナスベリー工房は全社を挙げて作戦を支援する。
そして、その作業に参加する前にアイビーは、大切な用を済ませようと聖域まで戻って来ていた。
門番のキンモクとギンモクが彼女の姿を見付け、敬礼する。
「アイビー様! おかえりなさいませ!!」
「いつもご苦労様」
「ありがとうございます!」
二人が開けてくれた門を通って中へ入る。目的地はまっすぐ前だ。
彼女が通り過ぎた後、二人の門番は眉をひそめた。
「なんだか、アイビー様……」
「ああ、お元気が無いな……」
アイビーはてくてくと歩き続けて聖域の中心を目指した。彼女を見つけた住民達は次々に挨拶してくる。
「アイビー様!」
「アイビー様、おかえりなさいませ!」
「ありがたや、ありがたや……」
神子を本物の神の如く崇拝する彼等の中には、膝をついて祈る者までいた。
そんな一人一人に手を振り返し、笑顔を見せてさらに先へ進む。その後ろ姿を見送った住民達は、やはり眉をひそめるか首を傾げた。
そして、到着。なるべくゆっくり歩いて来たのに、五歳児の歩幅でもすぐに辿り着いてしまった。
聖域を、もっと広く作っておけば良かったかもしれない。
霊廟を見上げ、また零れそうになった涙を堪えつつ中に入る。
そこには大きな“竜の心臓”があった。四百年間、彼女のために研究し、森中の木々を使って魔素を集め作り出した結晶。彼女を救いたい。そんな叶わなかった夢の残骸。
しばし、その前で迷う。
ナデシコには必ず消すと約束した。スズラン達にもそう言った。でも聖域には誰も簡単に入ることはできない。黙ってこれをこのままにしておけば、いつかその日が来てもナデシコを犠牲にせずに済むかもしれない。敵だって彼女の中の小さな“門”より、こちらの大きい方を選ぶはずだ。
でも、それは裏切り。
親友の覚悟を侮辱する最低の行為。
だから──
「……!」
血を吐く想いで魔素の供給を断った。これで、あと十分経てば自然消滅する。
肩の力を抜いたアイビーは、その場に座り込む。せめて消える瞬間まで見ていたかった。自分の九百と六十年の悲願の結末を。
だが、何分経った頃だろうか──巨大な結晶体の表面に予想外の変化が現れる。
ボコボコと泡立ち始めたのだ。
「なっ!?」
慌てて立ち上がる。こんな反応を見たことは一度も無い。そして泡が弾ける度に怨嗟の声のようなものが放出され、霊廟の中に木霊し始めた。
まさかこのタイミングで? 消滅間際の今になって、ここから“崩壊の呪い”が自分達の世界に侵入しようとしているのか?
だったらナデシコは救われる。彼女を犠牲にせずに済む。
なのに、アイビーの心を支配したのは怒りだった。
「ふざけるなッ!!」
これまで目の前の結晶体に注いでいた魔素を自ら吸収する。そこに保存されていた莫大な量の誰かの記憶を魔力に変換し、自分自身の魔力と成す。
「彼女が、どんな想いで守り続けて来たと思ってるの!?」
一瞬でも喜んでしまった自分が許せない。この世界で生きる者達の想いなどお構いなしに勝手なタイミングで侵入して来ようとする敵にも憎悪を燃やす。
魔力障壁で“竜の心臓”を包み込む。さらにアイビーの背後から逞しい二本の腕が出現して結晶体を左右から挟み込んだ。
自分と融合した盾神テムガミルズは“防衛”を役割とする神。だから絶対に守り抜いてみせる。ここからなんて侵入させない。自分の愚かさが生み出してしまったこれを入口になんかしてやらない。
「お前達が使ってもいいのは、彼女の中の“心臓”だけだ!」
【!】
凄まじい圧力で障壁が歪む。テムガミルズの腕までも弾き飛ばされそうになる。やはり上位の神々の力に下位の自分達では抗し切れないのか?
否。
クルクマが可能性を見せてくれた。下位だろうがなんだろうが関係無い。わずかな魔力しか持たずに生まれて来たあの子が、魔王ナデシコに痛撃を与えたのだ。自分達にだって、やってやれないはずがない。
「押し返すわよテムガミルズ!」
その言葉に応え、吹き飛ばされそうになっていた二本の腕が、さらなる力を己に込めた。
彼も彼女も力と力がぶつかり合って生じた余波で皮膚が弾け血塗れになっていく。でも、この程度の痛みが何だと言うのか?
ナデシコはもっと痛かった。
もっともっと辛かった。
「何が始原七柱よ! 勝手に絶望して、勝手に呪って──私の親友は、お前達なんかよりずっと気高くて強い!! 勝つのはお前達じゃなく、彼女の覚悟の方だ!」
「アイビー様ッ!?」
「こ、これは、まさか──」
無許可で霊廟に近付いてはいけないという言いつけを破り、異変に気が付いた住民達が飛び込んで来た。中で荒れ狂っている力の渦を見つめ、彼等は何が起きているのかを即座に悟る。
「もう、この時が……」
「まだよ!」
今にも決壊しそうな障壁を必死に維持しつつ彼等を叱咤する。
「まだ入らせてやらない! すでに魔素の供給を断ってから数分経過した! 残りの時間、手伝いなさい!!」
「は、はいっ!」
そして集まって来た住民達は、これまで何百年と繰り返してきた訓練の通り、それぞれ相性が良い属性ごとに集まって霊廟の四方を包囲した。中から溢れ出ようとする力を精霊達の力を借りた結界によって押し包みアイビーを援護する。
彼等によって外部への魔素の放出は完全に断たれた。その分、アイビーは敵を押し返すことに専念する。
「消え失せろ! ここは、お前達との決戦の場じゃない!」
小さな体からこれまで以上の膨大な魔力が放出され魔力障壁を強化する。少しずつ範囲が縮小し、いっそう強固になっていくそれに阻まれ、門から這い出そうとしていた者達が苦悶の声を上げる。
そして、とうとう限界が来た。アイビーと竜の心臓、双方が同時に力尽きる。だが彼女の意識喪失の方が僅かばかり早かった。その一瞬を狙って強引に崩れかけの門を潜り抜けようとする黒い腕。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
盾神テムガミルズの咆哮が轟き、両手の平を叩き付けて侵入を阻む。爆風で霊廟が砕け散り、破片が彼方まで吹っ飛んで行った。彼の巨大な手と手の間で、今度こそ完全に竜の心臓は消失し、黒い腕は千切れ落ちて銀の煙と化し拡散する。
「お、終わったのか……?」
「アイビー様!?」
危機が去ったことを確認しアイビーに駆け寄る聖域の民。彼等に抱き起こされ目を覚ました彼女は、天を仰いで眉根を寄せた。どうして曇っているのかと。
こんな時、視界に映ったのが青空だったら、きっと晴れやかな気分になれたに違いない。けれど霊廟が吹き飛んで視界に入って来たそれは、どんより灰色に曇っていた。
「大丈夫ですかアイビー様!?」
「早く治癒魔法を!!」
「いったい何が」
住民達の声も今の彼女には届かない。だんだんと、その表情が崩れていく。
脳裏に親友との思い出が次々浮かんで来た。九百六十年分の大切な記憶。それがずっと保ち続けてきた壁を突き崩し、決壊させる。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
アイビーが声を上げて泣くのを見て、彼女に声をかけ、あるいは慌ただしく動き回っていた住民達は虚を衝かれ困惑する。彼等にとっての彼女は崇拝の対象で、時に母親のようでもあり、常に教え導いてくれる存在だった。
今は違う。
数百年ぶりに発せられた慟哭は、濁った空に響き渡り、吸い込まれて行く。虚しく長く、ただひたすらに哀しく。
それは神如き者が初めて見せた、人としての素顔だった。
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