一人目 役者志望の女

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一人目 役者志望の女

 大通りに面した背の高い建物に、ここから仰ぎ見る夜空は細く切り取られる。二階、三階あたりに張り出した居酒屋らしき看板のネオンライトが迫り来る闇を押しとどめる。ここは眠らない街、ナイトマーケット。夜こそ賑わい、活気に溢れる場所だ。  カラフルなテント屋根を張り出して、軒を連ねる露店が実際の大通りの道幅を半分までに圧迫する。提灯や電飾に彩られ昼間のように明るいその中を、地元民だけでなく観光客までもが押し合いへし合い、アクセサリーや被服、小洒落た鞄などを物色しては、売り子と値下げの駆け引きを楽しむ声が飛び交う。そんな喧噪と裏腹に、店頭を冷やかしてお目当てのものを見つけられなかった女は途方に暮れていた。  舞台で身につける髪飾りのことで、所属している劇団の小道具係と揉めた。用意された簪が女のイメージとちがったのだ。小道具係は、公演の封切りを明日に控えているので、代わりの用意は間に合わない、納得がいかないなら自分で何とかしてくれとけんもほろろだ。女の要望は最初から伝えていたというのに。  女は役者の卵だが、自分はこの道で食っていくのだと心に決めていた。そのための第一歩を飾る、主演の舞台。妥協はしたくなかった。一縷の望みをかけてやって来たはいいが、ここで売られているのは見た目にもチープな商品ばかりで、舞台映えなどしそうにない。  肩を落としつつ視線をめぐらせた先で、女は露店の一角、白髪まじりの髪をひっつめにして沈黙している老婆に目を留めた。商品を陳列しただけで客引きへの意欲もなく、ただ傲岸不遜に座っている。どれほど商品に自信があるのだろう、と思って見てみると、扱っているのは瓦落多も同然な品物ばかりだった。適当に折り畳まれた携帯傘、使い古して色が変わった革のキーケース、針の止まった懐中時計。  ふと、女の目が吸い寄せられる。大きな花と蝶々の金細工をあしらい、玉の垂れ飾りがしゃらりと鳴る可憐な簪が一本、動く電飾が落とすひかりの明滅に浮かび上がる。  とんだ掘り出し物だ、と女は息巻いた。寝ているのかもわからない老婆の肩を揺すって訊ねる。 「これ、おいくらかしら?」  老婆は薄目を開けて女を見た。 「金はもらえないよ」 「そこを何とか。言い値で払いますから」 「そうじゃない。アタシゃ商いをしているわけじゃないのさ。アンタがこれを欲しいってんなら」  老婆は顎をしゃくる。 「アンタの持ち物の中から、それだけの価値に見合うものと交換だよ」  女は閉口した。鞄の中身は携帯電話、金とレシートとクレジットカードが詰まった財布、化粧ポーチといった必需品のほかには、明日からの公演の台本と去年の公演を収録したボイスレコーダー、記念撮影で使うから公演への意気込みを書いてきてほしいと渡された厚手の色紙、筆記用具だけだ。あげられるものなんてない。まして、ひと目でこれと思ったこの簪の価値に見合うものなんて。  しかし女は諦めきれなかった。鞄から色紙を引っ張り出すと、ペンを手に取る。蘭芳(ランファン)と書きつけて老婆に差し出した。 「今のあたしは何も持っていません。でも、あたしはこれから女優として有名になります。今、あたしがサインした色紙に価値がなくとも、数年後にはこの簪と釣り合うほどの、いえそれ以上に価値あるものとなって返ってくることを約束します。どうか譲っていただけませんか?」  老婆はうなずいた。 「アンタがそう考えるなら、アタシゃ構わないよ」 「ありがとう」  女は顔を輝かせた。簪を受け取り、大切に鞄にしまった。踵を返し、靴底がすり減ったスニーカーで家路を急ぐ。色紙は明日の午前中にどこかで新しく買おうと女は決めた。とにかく今日は早く休んで、明日に備えるべきだ。  明日は舞台の上でピンヒールを履いて、絢爛な衣装を身にまとい、この簪を挿す。きっと、公演は成功する。女にはその予感があった。
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