おはよう、いい夢を 島式凪

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おはよう、いい夢を 島式凪

 朝起きて、鏡を覗く。寝癖がひどい。軽く水を付けて撫でつけてやる。忙しいから、髪をセットする時間がないのだ。似合わない制服を着て、味のしない朝食を摂る。醤油でもかければいいのだろうが、あいにくここにはそんなものはない。時計の針がきっかり一周する頃、後ろの窓をコツコツと二回叩かれる。ほら、来た。僕のともだちのシキ君だ。  ローファーを突っ掛け玄関を飛び出せば、自転車にまたがったシキ君がこちらを向いてニコニコしている。真っ赤な顔して嬉しそうにするシキ君が手招きするから、僕も少しだけ嬉しくなる。当たり前のように彼の後ろにまたがって、シキ君の腰に手を回す。薄い。俗に言う二人乗りの状態だけれど、ケーサツなんてここにはいやしないのだから問題はない。カラカラと音を立てて進む自転車に、風が気持ち良かった。  どこへ、向かうのだろう。ぎゅ、とシキ君のシャツを掴む。にんまりと笑ったシキ君がこちらを振り返って前を指差した。……あぁ、公園ね。でも、危ないから前を向いてね。  ほら、言わんこっちゃないよ。ガシャン、と音をたて自転車が倒れる。僕は宙に投げ出された。別に痛くはないけど、自転車壊れちゃったんじゃない? 今日はもうずっとここにいよう。  ぎいぎいとブランコが錆びた音をたてる。僕らの体は大きすぎて、少し窮屈だ。横を見れば、シキ君がローファーを飛ばしていた。裏。明日は雨か。空を見上げれば何となく雲が厚い気がする。流石シキ君。明日は傘を用意しなくちゃ。何故か嬉しくなって、地面を強く蹴り上げた。ゆうらゆうら、ブランコは激しく揺れだす。こんなに嬉しいのは久方ぶりかもしれない。年甲斐もなくはしゃいでしまった。ふ、と隣を見れば、やっぱりシキ君はにこにこしていた。  お昼ご飯を食べよう。僕は大してお腹は空いていないけど、シキ君は食べなきゃだめだ。死んじゃう。……多分。地べたに座って風呂敷を広げる。今日のお昼ご飯は揚げパンと豆のスープ。多分、僕の好物。そういや僕、シキ君の好物知らないや。そっと器を手渡すと目じりを下げて緩く微笑んだ。でも、ちょっと申し訳ないから明日はもっと考えるね。スープを一さじ口に含む。相変わらず味はよく分からなかったけれど、嬉しそうなシキ君の顔が見られたからまぁ、いいか。  太陽は動かないしお腹も減らないから、今の時間帯はよく分からない。けれどきっと夕方だろう。少し意識が飛びそうだ。シキ君も目をしきりに擦っている。そろそろ、かえろうか。  立ち上がったシキ君の後を追いかけて、僕も立ち上がる。汚れてはいないけれど、パンパンとズボンを叩いて前を向く。ほんのちょっと人より速足なシキ君は、もう公園の外にいた。くすり、と微笑んだシキ君が眩しくて、少しだけ気恥ずかしかったから、かけ足で外に出る。それから、僕らは並んでゆっくり歩きだした。そこに言葉はない。だけど心地いい。シキ君 の笑った顔を眺めているだけで心から楽しいと思えるんだ。そして少しだけ温かくなる。ふ、と視線がぶつかる。そうして二人で笑い合って、あぁ。  玄関の前で立ち止まる。また明日、と手を振れば、にっこりと笑って手を振り返してくれる。どうやら、僕が家の中に入るまで見送ってくれるらしい。名残惜しくてもう一度振り返れば、シキ君はまだ手を振っていた。明日は何をしようか。どこへ行こうか。楽しいことはいくらでも思いつく。やっぱり僕はシキ君が大好きなんだ。ドアをくぐれば、たちまち世界は暗転した。  虚しいね。 *     *     *  目覚ましの音で目が覚める。時計を確認すれば、五時半。まだ一限まではたっぷりと時間があった。手早く着替えて髪をセットする。朝食はいらない。最近はまったくお腹が減らなくなった。教科書を準備してカーディガンを羽織ったら、家を出る。向かうのは、大学、ではなく父親が院長を務める病院だ。  僕、藤崎侑。十九歳。春から都内の私立大学の医学部に通う大学生だ。この藤崎病院の院長の息子である。妹と弟が一人ずついる。  「あら、侑君。おはよう。今日も泉君のところに?」  「おはようございます。後は、父のところに向かおうかと」  「あら、そうなのね」 顔馴染みの看護師さんと別れ、二階へ向かう。暖房のきいた廊下は暗いけれど温かった。一番奥の部屋に泉と書かれたプレートが掛かっているのを確認して、ドアを開ける。中は相変わらず、機械だらけで管だらけだった。歩を進めていけば、ようやくベッドにたどり着く。そうして僕はいつもの通り、管だらけのこの青年に声を掛けるのだった。  「おはよう、 シキ君」  泉志季。十九歳。現実のシキ君は、三年前から眠りっぱなしだ。  「あら、侑君。来ていたのね。今日もありがとう」  「晴海さん。おはようございます。昨日は泊まっていかれたのですか? 」  晴海さんは、シキ君のお姉さんだ。三年前、シキ君がここに運ばれた時もすぐに駆け付けていた。仲が良い兄弟なのだろう。あぁ、あの日は蝉の声がうるさい夏の日だった。  シキ君と僕ってさ、本当は全く接点がなかったんだ。窓側の席で参考書を広げている僕と、隣のクラスの太陽だったシキ君。クラスすら違った。でも、僕はシキ君を知っていた。休み時間に窓の外を見れば、いつだってシキ君は校庭にいた。シキ君は運動神経抜群で、何をやっても楽しそうにやっていた。そんなシキ君の笑顔が僕は大好きだった。いつか友達になりたくて、来年は同じクラスになれたらいいな、なんて思ってた。でもそれは叶わなかったんだ。  シキ君が交通事故にあった。居眠り運転のトラックに横から轢かれたらしい。血が止まらなくて、一命を取り留めたのは奇跡だったとか。怪我は一年もすればすっかり良くなった。だけれども、目覚めることはなかった。最初の内は、色んな人がお見舞いに来ていた。でも、もうシキ君を見舞うのは僕とお姉さんだけだ。どうしても、また笑顔が見たくて、友達になりたくて、僕は毎日この病室に通う。人はそんな僕を見て、友を救うため医者を志す素晴らしい友愛だ、と美談に仕立て上げる。否定はしない。だって、本当のことが知られたら気持ち悪い、って言われちゃうじゃない。  「……」  「侑君、どうしたの? ……あら、よく見たら顔色凄く悪いじゃない。先週より悪いわ」  「え? いつも通りですよ。……ケホッ」  「咳をしているじゃない! ちょっと、無理しちゃだめよ」  「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ? ……父に呼ばれたので失礼しますね」  そっと扉を開け、廊下にでると、父が難しい顔をして立っていた。  「……父さん、おはよ」  「侑。ちょっと。……痩せたな。恵が言っていたぞ、お前が全く食事を摂らないって」  「いや、夏バテしちゃってさ。医者は体が資本だってわかってるんだけど」  「明日、検査する。午後ここに来い」  「え、でも授業が」  「休め。……頼むから」  「……分かったよ」  三年前、シキ君が運ばれてから毎日夢を見る。シキ君と【友達ごっこ】する夢だ。夢の中のシキ君はいつも僕の大好きな顔で笑っている。そんな毎日が楽しくて、虚しくて、気が狂いそうになる。きっともう現実でシキ君とは会えないのだろう。勘違いしないで、シキ君は絶対目覚めるよ。ダメなのは僕の方だ。言っただろう、僕には時間がないんだ。  「侑君、待って! やっぱり、心配よ。これ、持っていきなさい」  「これは……? 」  「サンドイッチよ。私の手作りだけど、変なものは入ってないから安心して」  「でも、これ晴海さんが食べる分じゃ……」  「いいのよ、……これね、志季の好物なの。今朝、昨晩急に作りたくなってね。気付いたら二人分作っていたの。一人で食べるのは虚しすぎるわ」  「……それじゃあ、頂きます。器は明日お返ししますね」  晴海さんと別れ、病院を後にする。しん、と冷たい澄んだ空気が僕を包み込む。大学までは電車で三十分。まだ少しだけ時間がある。早めに大学に行ってもいいけど……。  駅のホームは通勤ラッシュの時間帯だと言うのに、人はまばらで閑散としていた。当たり前だ。この駅は各駅停車しか停まらない小さな駅なのだから。ベンチに腰掛け、先ほど貰ったランチボックスを取り出す。相変わらず食欲はない。だけれども、これだけは絶対に食べなくてはいけないと感じた。包みを広げるとパンの甘い香りが辺りに広がる。おそるおそる、一口かじれば、ハムの甘みとレタスのさわやかさが口いっぱいに広がる。ありふれた食材を組み合わせたものであるのに何故ここまで美味しくなるのだろうか。以前、料理は科学であると話を聞いたことがあるが、晴海さんの料理は、そういった無機質なものより魔法といった言葉が合うような気がする。食べる人の心を温かくする魔法だ。シキ君が大好きだと言っているのも頷ける。胃が食べ物を拒否し、喉の奥が勝手に締まるのを無理やりこじ開け、嚥下する。残りはどうしても食べられそうにないから、申し訳ないが捨ててしまおう。だけれど、味はしっかり覚えている。自分の腕で再現できるとは到底思えないが、やってみる価値はあるだろう。  「ふふ。シキ君、喜んでくれるかな」  ひどい笑みを浮かべていた自信はある。だけれども、あの甘くて苦しい夢のことを考えたら、もうどうでもいい気分であった。
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