4人が本棚に入れています
本棚に追加
ぼやけた世界 麦川茶知子
人を指差すのは失礼だって、彼女は誰にも教えてもらえなかったのだろうか?
私の頭に浮かんだのは、まずそれだった。知り合いの指の先には、赤間美晴の後ろ姿があった。
「でもさ、今の時代ハイソックスってさ、勇気あるよね」
気味の悪い半笑いを浮かべながら言う。その言葉に私は少しむっとした。
「白色のね!黒か紺ならまだ高校生らしくてかわいいけど、白色じゃあね。ちょっと幼いよね」
もう一人が慌てて付け足す。私は、この場に私がいなければ彼女が色なんてわざわざ気にしないことを知っている。人の機嫌を伺って主張を変えるなんてみっともない。必要以上に空気を読んで堂々としていない人間が、私は嫌だった。
「白のリボンも、なんだかね。白が好きなのかなぁ?」
「ピアノの発表会みたいだよね」
言い出した方が私の紺色のハイソックスにやっと気づいたのか、からかう箇所が靴下からリボンに移った。大きなため息でも吐きたい気分だった。
彼女らは赤間さんになにかされたわけではない。そもそも赤間さんがなにかできるわけがない。彼女はひどく内気で、友達どころか気軽に話せる相手さえいないのだ。
四月頃、地理の授業で自由に三、四人のグループを組んで作業をする機会があった。赤間さんはうまく声をかけられなかったようで、目のあたりをうっすらと赤くしながら教卓のそばに立っていた。結局この三人グループに入ったのだが、もじもじしていてばかりで聞かれないと何も言えない様子だったのを覚えている。それ以来、二人はときどき赤間さんを陰で馬鹿にするようなことを言っていた。赤間さんに限らず、似たような人たちは全員標的だった。今日はたまたま赤間さんだったのだ。
極端に主張ができない性質を嫌う人間というのは、一定数いる。
「白が好きだったらちょっと面白いな…」
私の感性をたっぷり否定されたのが不愉快だったので、私も話題をずらした。二人は、何を言っているのかわからないという様子だったが、私に合わせて愛想笑いをしていた。それよりも私がこのグループの雰囲気を壊さなかったことに安心しているようで、そのことを隠す気もないような表情をしていたのが腹立たしかった。
知り合いたちはああ言うが、赤間美晴の制服姿は他の誰よりも調和がとれている。ここの制服は、スカートもベストも、ブラウス以外すべてが紺だった。私たちのように着ると、ブラウスの白だけが取り残される。私はこの状態に言いようのない気持ち悪さを感じていた。赤間さんはブラウスの他に頭にも足にも白を置いていた。初めて見た時から彼女の姿は完璧だと思った。白い上履きから黒色のローファーに履き替えると、彼女の真っ黒な髪と呼応してもっと美しく完璧になった。少なくとも私の目にはそう映った。
気持ち悪いと思うならなぜそうしないのか?実は私も初めて制服を着た時、鏡の前で彼女のように白の靴下を履こうとしていたのだ。しかし、それを見ていた祖母の「白はちょっとねぇ…普通の高校生ならやっぱり紺だね」という言葉に簡単に挫けてしまった。毎朝「白はちょっとねぇ」なんて思われながら送り出されるのは耐えられないと思った。
私のできなかったことをしている赤間さんは最初から他の人たちより少しだけ特別だったのだが、体育祭の日、彼女は私の中でもっと特別になった。一か月と少し前のことだった。
表彰の長い閉祭式が終わり、ほとんどの生徒が運び出した椅子の上の荷物をまとめている中、担任の先生は「みんなで写真撮ろう!」と朝礼台の前から呼びかけていた。
それに向かっていく「私のスマホでも撮ってください!」という声たちを聞きながら、私はまたか、と残念な気持ちになっていた。その声たちの中には、知り合いの二人も混じっていたのだ。この前もお昼休みに何回も撮ったのに、まだ足りないのだろうか。高校生になってから一体何度写真を撮ってきただろう。そんなに撮っていたら、ひとつひとつの記憶が薄っぺらくなってしまうような気がした。
「写真、好きじゃないんだけどな」
「本当にね。ちっとも素敵じゃない…」
本当にただの独り言のつもりだった。誰にも聞かれていないと思ったので、返事があったことに私はとても驚いてしまった。
声のした方を振り返ってみると、赤間さんが目を伏せて歩いていた。後日配られた写真の中で、赤間さんは見たことがないような真っ赤な顔をしていた。おそらく写真の中の彼女は、おかしな子だと思われるようなことを言ってしまった、などと考えていたのだろう。しかし、私はその言葉に対してとても共感していた。昔は長い時間をかけて残そうとしていたものが今は数秒で簡単に残せるなんて、なんだか味気ない。そういう意味も含んだ発言だったので、彼女の「素敵じゃない」という返しはちっとも的外れではなかった。
素敵じゃないと思うことが一緒なら、逆に、彼女の思う素敵なことは私の思う素敵なことに近いのではないか。そう思った。私は次の日から、彼女が近くにいるときに話しかけようとしたが、なぜかいつも私に話しかけられそうになると申し訳なさそうな笑みを浮かべてさっさと逃げてしまった。五、六回ほどそのようにかわされ続け、気づいたら一学期の終わる日だった。
そんな区切り目の日まで趣味の悪い話しかできない知り合いたちに、私はうんざりした。このグループでは、噂話が一度も出ない日なんてなかった。
なんとか先生の授業が眠いだの、同じ委員会の男子がかっこいいだの、やっぱりここでもそんなことしか話さない。今までも、私はそんな人たちとしか一緒にいたことがなかった。お互いの深いところは知らないまま、現実的なくせに役に立たない話に相槌を打っていたらいつの間にかさよならをしている。グループを抜けることができなくても、私はこんな関係を友達だとはどうしても呼びたくなかった。
このグループを抜けられないのは、白い靴下を履けなかったときと同じような勇気のなさからだった。一人は好きだったが、やっぱり孤立するのは惨めだと思ってしまう。 私がなによりもいちばん嫌いなのは、受動的なくせに不満ばかりで、肝心なところで勇気がない、そんな自分の性格だった。
「みずきん、あとで美術部の予定、教えてね!」
ホームルームのあと、知り合いたちが手を振りながら言った。
「…うん」
まさにこういうところだった。そのあだ名好きじゃない、あなたたちとなんか遊びたくない、とは強く思っていても絶対に言えない。それが私の弱さだった。私は今の会話から逃げるように第二校舎へ走った。
「今日はこれしかいないの?」
美術室の引き戸を開けてみると、中には私と同じ一年生の新井くん一人しかいなかった。学期末テストの二週間前までは必ず十人弱は来ていたのに、なぜか夏休みが近づくにつれてどんどん部室には人が来なくなっていった。私たちの他にも所属している一年生はいるという話を聞いたことがあったが、私は今のところ新井くんしか見たことがない。
「たぶんいない。部長が鍵置いて帰ってった」
彼は缶を持っていない方の手で鍵を持って揺らしてみせた。ぢりぢり、と錆び切った鈴が鈍い音を上げる。
「なるほど。私たちがいちばん真面目っていうことか」
「より正確に言うと、俺が真面目っていうことだな。今度のコンクールの絵、下描きすら終わってないだろ。出席だけ多くて誰よりも進んでないの、そろそろやばいと思う…」
とんとん、と彼が指し示した先には赤紫色の海があった。たまに混じる黄色、緑、水色の横の線たちが主張しない程度に美しく、絵全体を幻想的にしていると思った。彼はこれ以上何を付け足すのだろう。もうそこで完成していてもいいくらいその絵は完璧に見えた。
「まあ…それは今日なんとか終わらせるよ。お昼ご飯、何持ってきた?」
私はできるだけ申し訳なさそうに言ったが、新井くんは少し嫌そうな顔をした。
「ホットサンド」
「素敵。分けてくれ」
新井くんは嫌そうな顔を隠そうともしなかったが、ランチバッグからホットサンドを一切れ取り出して渡してくれた。素直で優しい、というのはまさに新井くんにぴったりの言葉だと思う。私はなぜかここでなら図々しくいられた。それがいいこととは決して思わないが。
「ありがとう」
「どういたしまして。さっさと食べて描きな」
ラップを外すと、バターと卵のいいにおいがした。ずっと前からおなかがすいていたので一気に食べてしまいたかったが、ちびちびと食べることにした。できるだけキャンバスの前で悩む時間を先延ばしにしたかった。
「やっと一学期終わった。あの子たちと毎日会わなくて済む」
私は半分くらい食べ終わったあと、彼が雲に影をつけていく様子を見つめながら言った。
「まだそいつらと切れてなかったんだ」
彼は私の人間関係をよく知っていた。ある日、どうしても一人で嫌な気持ちを抱えることに耐え切れなくなり、話してしまったのだ。
「切れてないどころかさ、美術部の予定教えてねだって」
「この調子じゃコンクール前日まで通い詰めだろうから安心だな」
思わず笑ってしまった。その通りだと思った。私が彼女らのことを話すと、彼はいつもこのように適当な返事をした。真剣に悩まずさらっと流してくれるので、私もなんだか軽い悩みのように思えてくる。それが寂しいときもあるが、そんなのは私のわがままだと思った。彼は、今のところ一番友達に近い人物かもしれなかった。
何も挟まっていない最後のパンのひとかけらを口に放り込む。意外と早く食べ終わってしまった。
私はのろのろと立ち上がりゆっくりイーゼルを組み立て、静かに真っ白なキャンバスを載せた。今日も何も浮かぶ気がしなかった。実際、一時間くらい「あー」とか「んー」とか声を上げて悩んでいるふりをしてみても、何も返事はなかったし何も舞い降りてこなかった。頭の中では「素敵じゃない」という言葉がぐるぐる回っていた。何かが思い浮かんでも、いつもその言葉に否定される。私の頭に浮かぶのはどれも現実的な映像だった。私はペン回しをしながら独り言のように「赤間美晴って知ってる?」と尋ねた。
「赤間さん…知ってる」
「知ってるんだ。他のクラスなのに」
「知らない」か返事が返ってこないかのどちらかだと思っていたので、私は予想しなかった返事に嬉しさを感じた。
「芸術科目。そっちのクラスと合同だろ」
「わざわざ覚えてんのすごいよ」
「泣いてたよ、あの人。音楽鑑賞の回で。だから覚えてる。あとちょっと目立つ」
私はそれを聞いてやっぱりなにがなんでも話しかけておくべきだったと後悔した。音楽に感動して涙を流すなんて、見栄が邪魔してなかなかできることじゃない。赤間美晴は私の思った通りの人なのだと思った。
「赤間さんがどうかした?」
「逃げられてんだ」
新井くんが怪訝そうな顔でこちらを振り返ってきたが、無視した。なんとなく説明する気にはなれなかった。
「あの子って、イレーヌに似てる」
頭にパッと浮かんだことを、私はそのまま口に出した。
「似てない」
「似てるよ」
それっきり返事は帰ってこなかったし、私も何も言わなかった。
「だめだ。ぜんぜん思い浮かばない。帰る」
十分くらいして私は立ち上がった。新井くんに何も言われないうちにさっさと片づけてしまった。
「じゃ、ごちそうさまでした。なんかお昼たかりに来ただけみたいになっちゃったな。ごめん」
「みたいじゃなくてそうだろ」
呆れ切っているのが声だけでわかった。私はなるべく申し訳なさそうに聞こえるように笑った。ここで帰れば職員室に鍵を返す役割も押し付けることになってしまうので、実際申し訳なさは感じていた。
「図書室で印象派の画集でも借りたらいいんじゃないか、なにか降りてくるかも」
「それいいね」
なんとなくこのまま帰るのは嫌だったので、私はその提案通りにしようと思った。
私は入口の前で振り返って言った。
「また明日ね」
返事はなかった。
図書室の大きな時計を見てみると、まだ三時半だった。
夏休み前日だけあって、人は少なかった。勉強熱心な学生が二人と、本を読みながら居眠りしてしまった学生が一人だけだった。
私は彼らの邪魔にならないようにルノワールとモネの画集をぎゅうぎゅうの棚から引っ張り出し、受付に持って行って借りた。恥ずかしいことだが、これが私の高校生活で初めて借りた本だった。
鞄を開きながら私はさっさと出て帰ろうとしたが、びっくりして画集を落としそうになってしまった。ガラス戸の向こうには、さっきまで私たちが話題にしていた赤間さんがいた。彼女は固定されている方に貼られているポスターをじっと見ている。ちょうど入れ違いになってしまったのだろうか。まさかこんな時間まで残っているなんて思いもしなかった。
私はさっきの会話を思い出し、話しかけなきゃいけない、と思った。しかし、正直何回も拒否されていたことに対してはさすがに気がくじけていたので、今回話しかけて逃げられたらもうやめようと思っていた。
静かに一回だけ深呼吸してから、偶然出てきたように隣に立ち、話しかけた。
「赤間さん、私さ、体育祭のときのあれ、すごくわかったよ」
彼女は無表情のままうつむいた。しまった、話しかけ方がまずかった、と後悔したが今回は逃げられなかった。私は不思議に思いながら慌てて話を続けようとした。
「何か借りたの?私も借りたよ」
表紙を見せる。これで何か会話につながればと思った。
「一八七〇年代あたりの小説が好きで…」
彼女は答えになっていない答えを言いながら手に持っている文庫本を後ろに持ち替えた。
「一八七〇年代?印象派もそこらへんだよ。パフスリーブとか日傘とか、いいよね」
年代が偶然重なっていることを嬉しく思って私は声が少し大きくなったが、赤間さんはそのまま黙ってしまった。
沈黙に耐え切れず、私は新井くんとの会話を思い出して引用する。
「赤間さんあれだ、ルノワールのイレーヌに似てるよ」
私は借りたばかりの画集をパラパラとめくり、その絵画を見せた。
「あっはは、やだ、全然似てない!」
予想外の反応だった。多分私が赤間さんの笑顔を見たのは初めてだったと思う。私の感性は本人にまで否定されてしまったけれど、そこから緊張が少しずつほぐれていったのか、赤間さんはいろいろなことを話してくれた。
「あまりにも神の名前が出てくるから、私聖書買ったの」
「ギリシア神話も少しかじってみたりね。わかるよ」
最初のうちはこのような現実的な話をしていたが、だいぶ慣れてきたころには、素敵な砂利道を通ると泣きたくなること、夢の中で車が魚のように海を走っていたこと、らっこになって満天の星空を眺めたいこと、大きなお屋敷に住んで夜毎のお茶会を開きたいことなど、非現実的で役に立たないことをたくさん喋った。何年も前からの知り合いだったかのように私たちの会話はかみ合った。このときの私たちは、たしかに本や絵の中の人物と一緒の世界にいたと思う。
五時を知らせるチャイムが鳴ったのは、石油王を助けたらどのようなお礼をしてもらえるか、という話で頬が痛くなるほど笑っているときだった。私たちの笑いは魔法が解かれたようにため息に変わっていった。
「灰被りみたい」
彼女はそう言ってレース付きのハンカチで上品に目じりを拭った。私も同じことを思っていたが、口には出さなかった。私たちは笑い泣きの余韻で鼻をすすりながら、しばらく無言で歩いていた。話し始めはつらいと思っていた沈黙が今では全くつらくなかった。新井くん以来初めてのことだ。
階段を降りようとしたとき、私は一つ尋ねるべきことを思い出した。
「あのさ」
赤間さんは返事をせずにこちらを向いた。
「赤間さんはさ、もしかして普段私に話しかけられるの困る?…なんで逃げちゃうのかなって」
彼女は自虐的な笑みを浮かべて言った。
「いや、水木さんが困ると思って」
「え?」
「いつも一緒にいる人たち、私のことよく思ってないみたいだし…」
私は顔が熱くなった。赤間さんはあの無遠慮な批評を聞いていたのだ。あの人たちへの私の勇気のなさが、巡り巡って赤間さんの勇気を奪っていたなんて私は考えもしなかった。
「私は金のピン留めとかくるぶし丈の靴下より、いや、それもいいと思うけどさ、リボンとかひざ下の靴下の方が上品で、いいと思う」
赤間さんはぽかんとしていたが、自分でも何を言っているのかわからなかった。私は余計混乱してしまった。
「私、あの二人の知り合いしてるより赤間さんと二人で悪口言われてた方が絶対楽しいと思う」
「だから、私は、私と友達になってほしい」
勢い任せで不格好だったけれど、私が初めて勇気を出して言った本心からの言葉だった。友達の作り方がこれであっているのかはわからなかったが、私は少しだけ自分のことを好きになれたような気がした。赤間さんはずっと黙ったまま何度も頷いていた。
「住所教えるよ。文通の方が好きだよね、あ…美晴は」
外は爽やかに晴れていた。人間の目はなんてすばらしいんだろうと思った。ぼんやりとした世界の優しい色彩は、まさに私が描き留めるべきものだった。
最初のコメントを投稿しよう!