架空の翻訳児童文学の第1章――またの題を「冒険の始まり」 わんわんもあもあ

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架空の翻訳児童文学の第1章――またの題を「冒険の始まり」 わんわんもあもあ

 どうやら僕は、窓を開けたままだったらしい。初夏の生温かい夜風が吹く。ふわりとカビとホコリのにおいがただよった。 僕は、長い間ずっと本を抱きしめて、冷たい床によこたわっていた。どれくらいの時間が経ったのだろう。チクタク、チクタク……規則正しい針の音。僕は時間を確かめようと、重い頭をもたげた。すると、視界いっぱいに飛び込む、背の高い本棚たち。それらは、ぐるりと僕をかこんで、一斉に見下ろしていた。 「君たちとも、今夜でお別れだね」  ぽつりと口にすると、僕はひどくみじめな気持ちになった。この図書室は、エテルネル家の遠い昔の当主が、屋敷のはなれに建てたものだ。貴重な本や資料がのこされた、すばらしい遺産である。父は病気で亡くなる時に、読書嫌いの三人の兄にはわずかなお金を与え、僕にこの図書室の管理をまかせてくれたのだった。 僕は、この図書室が大好きだった。けれども、明日の十二歳の誕生日に手放さなければならない。なぜなら、ここは今夜十二時、燃やされるのだから。あかあかと燃える図書室を想像して、僕は身震いした。 「お父様、ごめんなさい。ここを守れなくって」   僕は、本をより強く抱きしめた。時計は十一時を指している。日が変わるまであと少し。いっそのこと図書室もろごと僕も焼け死んでしまおうか、なんて暗い気持ちがじわじわとわき上がる。ふと、その時だった。 「君、何をメソメソしてるのかね」 スズ虫みたいな明るく良く通る声が聞こえた。起き上がり、声のする方へ目を向けると、開け放した窓に誰かが立っていた。月明りを背にして立つ影は、ひらひらとマントをはためかせている。僕は、おそるおそる口を開いた。 「ここは、三階だけど、あなたはどこから来たんですか?」 「ずいぶんなごあいさつだな。とにかく、中へ上がらせてはくれまいか?話はそれからだ」 「はあ、どうぞ」  僕は、影の方へ近づきその手を取ろうとした。すると、反対に腕をつかまれる。とっさにふりほどこうとしたけれども、想像以上に強い力にひるむ。なされるがままに、僕と影は窓の外へと落ちていった。 ――落ちるんだ!落ちて死んでしまうんだ!  地面に真っ逆さま――僕は重力に身をまかせるしかなかった。さっきまでは図書室と焼け死んでしまおうか、なんて考えていたことがウソみたいに、死ぬことが怖くて怖くて仕方なかった。きっともうおしまいなんだ。どうしようもない。それでも僕は、かすれた声を出さずにはいられなかった。 「たすけて!」 「私は、その言葉をまっていたのだ」  影の口元が、うっすらと笑ったように見えた。  ゴーン……ゴーン……  時計塔の鐘の音で目が覚める。鐘は、十二回鳴った。 「お目覚めかね。ずいぶんとあさい眠りだったようだ」 「ここは?僕の図書室はどうなったの?」 「時計塔のてっぺんだ。みはらしが良いだろう。君の図書室も、ここからよく見えるはずだ」 足元に広がる街の景色から、図書室を見つけるのは、そうむずかしいことではなかった。屋敷から少しはなれたところに、僕の図書室は建っていたはずで……今はもう、あかあかと燃える大きなかたまりに変わっていた。 「君、つらいか?苦しいか?許せないか?」 「……分からない」  こうなる運命だと分かっていた。僕には何もできなかった。 「もう君には帰る家もないだろう。あの図書室は、君の家と同じだったのだから」 「あなたは、僕をどうしたいんですか」  僕は、初めて影の方を真っ直ぐに見た。黒いマントをまとい、たたずむ姿はわかわかしい。意外にも僕とそう歳ははなれていないように見えた。 「これは失敬。シャルル・エテルネル、エテルネル家の現当主様。初めまして。私はバタール伯爵――あなたのお父上のふるい友でございます」 「父の……?」  さっきまでのごうまんな態度と変わって、おごそかにおじぎをする姿におどろいた。そして、父の友人……。父の友人を名乗るには、彼はあまりにも若すぎるように見えたのだ。 「おどろかれるのも無理はない。私はいわゆる吸血鬼ですから、ええ、まあ人間とは歳の取り方もいくぶんかおそいのだ」 吸血鬼だなんて、空想上の生き物だと思っていた……きむずかしい父に、友人がいただなんて……言いたいことはたくさんあったけれども、全て声にならず、僕は地面に目を落とした。 「私は、君の父との約束を守らなければならない。吸血鬼は、約束や義理にしばられるのだ」 「約束って?」  バタール伯爵が、いつのまにか元の口調にもどっていたことも構わず、身をのりだした。僕や兄達に言わないで、父がこの人にたくした約束とは何だろう。 「……今は話せない。ただ、これだけは分かってくれたまえ。私は君の父から、君を守るように言われている。しかし、私は同じ場所に定住することはできない。だから、君には私と旅をしてもらう。いやでもなんでもだ」 「ついて行けば、父との約束も教えてくれるんですか?」 「ああ、その時が来ればかならず」  バタール伯爵の目は、火のように真っ赤な色をしていた。燃えつきて、くずれていった図書室のことを思う。どうせ帰る場所はないのだ。僕は右手を差し出した。 「あなたについて行きます。よろしく、バタール伯爵」 「ああ、よろしくシャルル君」  にぎり返した手は、吸血鬼らしく冷たくて死体のようだった。彼は意地悪くほほえみ、ささやいた。 「ハッピーバースデーシャルル君。最悪の誕生日だな」 僕は手をふりほどき、にらみつける。彼は気にもとめず、けらけらと笑った。  生温かい夜風が吹きつける中、僕は十二歳の誕生日をむかえた。時計塔を照らす月明りが、不気味にかがやいている。僕の冒険の始まりは、そんな夜だった。
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