今宵、あなたとワルツを 朝日奈ちまき

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今宵、あなたとワルツを 朝日奈ちまき

 黒と青の混ざり合った世界。漆黒、藍色と言い切れないような空。果たしてこの色は何色と言い表せば良いのか。そんな空に、小さくも煌めく星々、一点の曇りもない大きな満月が浮かんでいる。その光は強く、けれど上品で。月光は湖の周囲を照らす。目の前の湖は光を受け鏡面のようになっていて、木々や湖の周りを取り囲むススキを映し出している。 ふと、風が吹いた。風は木々を揺らし、水面を少し荒立たせる。風がゆっくりと止むと、辺りが一瞬静寂に包まれた。しかし次第に鈴虫の鳴く声や動物たちが木々の間を駆け抜けていく音が少し聞こえるようになった。……さて、そこに一人の男がやってきた。彼はススキの生い茂る中に入り、ぼんやりと月を見上げる。そしてそれをこっそりと、狐は見ているのだった。 「……ああ、そうだ。ミッドナイト・ブルウだ」 月を見上げ、空を見つめていた男は、そういえば外国では真夜中のことをミッドナイト、と呼ぶことを思い出した。この空の色はそう、ミッドナイト・ブルウ……横文字は馴染みがないからか頭に入らない。 気がつけば江戸も終わり、今は明治の世である。明治になり何もかもが変わった。欧化政策により街並みは変わり、レンガの道にガス灯、そして鹿鳴館という、いかにも西洋の猿真似じみた建物が建てられたのだ。……いずれこの国の景色はそのようなものたちに全て乗っ取られてしまうのだろうか。男はそのようなことを考える。また、それと同時に文明開化がもたらしたものは、どれも男には珍しいものばかりではじめは心を躍らせた。けれど、男はふと怖くなったのだ。あと数百年、いや数十年もすれば、景色はがらりと変わるだろう。そしてそこに昔の面影はあるのだろうか。何もかもが新しいものに侵食され、失われていくのではないか、一度考えると何とも言えぬ寂しさに私が侵され、一人、時代の流れに取り残されていく恐怖に蝕まれるのだ、と。男は湖に映る自分の姿を見て、その隣には誰もいないことを改めて実感する。 「……ああ、愛しき人。君は何処に」 愛しき人。ここで約束をし、逢った日々。男はここで出会った女のことが忘れられず、何度も湖へと通っていた。ある日、彼女にもう会えないと告げられたが、忘れることができなかったのだ。 「君と会えなくなった間に何もかもが変わっていく。ああ、苦しい、寂しい」 ……男は変わりゆく世界が嫌いなわけではない、それは彼もとっくにわかっている。ガス灯が一つ、また一つと増えていくのを、少し寂しそうに、けれど、なんて綺麗だとふとこぼして、夜が明けるまでずっとガス灯の明かりを見つめていることもあった。湖の周りにあるガス灯の明かりを、ただ。ただ見つめていた。しかしそのガス灯も、ついこの間なくなってしまった。 「いつしか、月明かりもいらないほどに、明るい夜が来るのだろう。ガス灯は消え、電灯……アーク灯の世になったからね。明るい夜が来ることは、正直楽しみだ。けれど、けれど……」 男は怖いのだ。今ある物が失われ、世が変わっていくことが。世界が移り変わるたびに思うのだ、ああ、君の知る世界が少しずつ失われていく、と。愛しき人と共に過ごした世界が、時間が、失われる気がして、とても怖いのだ。 しかしその反面、目まぐるしく変わる世界が、楽しいと感じてしまうのである。便利になる生活に愉悦を感じ、時の流れに身を任せている。ああ、何と素晴らしい世界であるか、そう感じずにはいられない。愛しき女のことを忘れ、小さな幸せに浸り、生きている。しかしふと、彼女のことを思い出せば寂しさを感じ、移り変わる世界に恐怖を覚え、時代に取り残された気持ちになる。男は嘆いた。ああ、この相反する感情を私は背負い続けねばならないのか。いっそ君のことなど忘れてしまえればいいのに、そんな風にも、思ってしまうのだ。 「忘れられるわけが、ない……」 身勝手な片思いと分かっていながらも、未練がましく通い続けてしまう、本当に私は彼女を愛していたのだ。 *** 男はシャツの胸倉をぎゅっと握りしめ、なにかを堪えるようにその場に両膝をついてしまった。その姿を、このススキの生い茂る湖に住んでいた狐は、彼をじっと見つめていた。……なんと憐れな、愚かな男よ。 『身分も立場もどうだっていい、私は君といられればそれで』 『いいえ、なりません。私のことなど早く忘れてしまった方がよいのです。早く忘れ、幸せになってください、私はもうここへ来ることはないでしょう』 あの時声をかけなければ、これほど辛い思いをしなかっただろうに。ああ、あわれ。あな悲しや。……またここに来られても困る。どれ、一度会えば諦めるだろう。狐は男の姿を見るに見かねて、女の姿に化け、彼に声をかけた。 「あら、まだここに来ていらしたのですか」 「君、君は……ああ! 会いに来てくれたのか! 愛しき人、未練がましいと思いながらも、私は……」 男は女に化けた狐を愛おしそうに抱きしめる。女は困ったような笑みを浮かべ、そのまま聞いてくれと男に言った。 「私はもう嫁に行くのです。ここへ来られなかったのはその準備のため、そして来なかったのは貴方を忘れるためです。ですが私も貴方と同じ、未練がましい女でした。もう会えないとわかっていながら、今日ここへ来てしまった」 女はゆっくりと男から離れた。 「ですがそれも今日で終い。今宵は泡沫の夢、今日のことは互いに忘れ、別の道を歩みましょう。私はもうここへは来ません。貴方も、来てはなりません」 女はそれだけを告げ、去っていこうとしたが、男は彼女の腕を掴んだ。 「……なんでしょう」 「待ってくれないか」 「いいえ、待ちません」 「最後に、一つ願いがある」 女は、訝しげに、なんでしょうと答えた。 「私とワルツを踊ってほしい」 「はぁ、ワルツ、ですか」 「ああ。ずっと君と踊りたかったんだ」 「ですが、着物では踊れません」 「構わないさ、完璧でなくていいのだから」 「……私は貴方と違って、鹿鳴館で踊ることのできる身分ではないのです。そんな私が、踊り方を知るわけがないでしょう」 「いいんだ、それでも」 君と、踊りたい。男は真っ直ぐな眼差しで女を見つめ彼女に手を差し出した。女は断るにも断れず、男の手を取った。仕方ない、断れないのだから仕方がない。そう言い聞かせて。……実は少し、興味はあったのだ。 二人は月夜の下、湖のほとりのススキの生い茂るこの場所で、ワルツを踊った。洋装の男と、和装の女。優雅に女をリードする男と、それにぎこちなく寄り添い、なんとか合わせて踊る女。誰が見ても不釣り合い、不格好。けれど二人はこの時だけは互いの身分やこれからのことを忘れ、ただの愛し合う女と男。幸せそうに微笑みながら、ただ、ただ、踊っていた。 「実は私ももうすぐ、縁談が調うのだ」 しばらく踊って、そして男はそう告げた。もうすぐ東京を離れるのだと、私も同じく、ここへ来るのは最後と決めてやってきたと、そう言った。 「最後に君に会えてよかった。まやかしでも、幸せな時間だった」 「まやかし、ですか」 男は頷いて、笑った。 「君はここに住む狐だろう? 彼女がここには狐がいると言っていたからね。ずっと私の憐れな姿をみていたのだろう。そして私をもうここへ来させないために、一芝居打ったというわけだ」 「……なんだ、気付いていらしたか」 「ふと、そんな気がしたんだ。あまりにも都合がよすぎたからね。それにしても、すごいな。……この簪、これは私が彼女に送ったものでね。職人に頼んで作らせたものだから、この世に一つしかないのだが……ここまで再現できるとは」 男は女の髪に挿してある簪にそっと触れた。女は寂しそうに、微笑む。男は少し名残惜しそうに、簪から手を離して、女に背を向け歩き出す。背後から、お前さん、と呼ぶ声が聞こえた。男は振り返らず、その場で立ち止まる。 「名前を、名前を呼んでくださいな」 「名前? 君の名は……」 男はふと思った。彼女……いや、この狐の名を私は知らないと。 「いやだねぇ、最後までこの狐に化かされておくれ」 「……すず。お鈴」 男は女の名前を呼んだ。 「……はい。またいつか、お前さんと会えることを……いや。お幸せに」 びゅう、と強い風が吹き、男はふと、後ろを振り返った。するとそこには、もう誰もいなかったのだった。 「姫様! またここに……そのうえ人間の姿に化けているとは!」 「いやぁ、すまないね。最後にどうしても、あの顔が見たくなったのさ」 狐の周りにはわらわらと他の狐や不思議なモノが集まりだす。 狐は懐かしそうに、寂しそうに笑みを浮かべ。男が昔言った言葉を思い出していた。 身分も立場もどうだっていい、か。狐は笑って、家来たちを連れ、夜の闇へと消えていく。 次の日、男が外に出ると、晴れているのにもかかわらず雨が降ってきた。 「狐の嫁入りですね」 付き人が男に声をかけた。 「……ああ、そうだったのか」 男はしばらく歩いて、ふと、そんな言葉を呟いた。その頃にはすでに雨は上がっていた。
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