身重なピオーネ 斜名國子

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身重なピオーネ 斜名國子

太陽の熱気が窓を通過して、エアコンのきいた部屋にまで漏れているから、半袖のシャツを着るのには十分な暑さだと信じた。今年初めてになる夏用の制服に腕を通すと、すがすがしさというよりは、おちつかない。昨日にも一昨日にも夏用の制服を着ている子はチラホラといたから、別に変ではないことがわかってはいるけど、やっぱりどうにも気恥ずかしい。こういう少しの変更に対してだって、気を張ってしまう。やっぱり、長袖に戻そうかな。なんて、鏡の中の自分を見つめて考える。   少し太ったのかもしれない。去年はもう少し二の腕のあたりがすっとしていたし、肩幅も少しきつくなったように感じる。こういうのは、自分ではあまり気がつかない。毎日毎日、自分と過ごしていると、いつ変わっていっているのかなんてわからない。それは少し怖いことだと感じる。幼稚園の頃と今の私じゃ、もちろん全く違うわけで、でもその経緯がわからない。奇妙なことだ。その経緯を他でもなく共に過ごしてきたのは、私だというのに。  「ゆりか、何してるの。もう七時半よ」 リビングから、お母さんの声が聞こえてきた。長袖に戻すことをあきらめる。もう七時半。学校の用意をもって、部屋をでた。エアコンと部屋の明かりを消すと、途端に色がかすんで静かになった。耳を澄ますと、窓越しに蝉の声が微かに聞こえる。影のような光に包まれた部屋はどこか寂しげで、今年も夏が来たことを実感した。  「夏服にしたのね。」 とお母さんが聞いてくるからドキドキした。お母さんは、いつも通り紺のスーツを着ていた。髪の長さはベリーショートともいえるぐらいの短さで、足が長くスタイルのいいお母さんの姿は、誰が見てもかっこいい。スカートじゃなくてズボンを履いているところも素敵だと思う。それは、私の、娘の自惚れとかじゃなくて。  「まだ早いかな、少し変?」 「いいえ、もう十分に暑いもの、その方がスッキリしていいわ」  私の夏服姿を、下から上まで見通したお母さんが大丈夫だという。そうだよね、もう半袖で登校しているひとも多いし、て答えたら、お母さんはもうそのことに興味がないようで、聞いていないみたいだった。よかった。変じゃないし、多分、そこまで太ってもない。 それじゃあ、といって仕事に向かうお母さんを見送ったら、家の中の雰囲気がそれだけで随分変わって見える。静かになっただけなんだけど、まるで時間が止まったみたい。もちろんそんなわけない。私だってあと十五分もすれば家をでなくてはいけないし、時間の前ではすべてが平等だもの。 私は、毎日仕事に向かうお母さんを見送るから、お母さんの姿はずっと変わらないような気がするけど、でもそれはきっと、毎日毎日、私がお母さんの姿を見ているからであって、ひょっとすると、その毎日毎日、をまだ繰り返していない私、例えば、一年前の私、二年前の私、が見ていると、確かに、その変化というものがわかるのかもしれない。お母さんは今年で三十五歳になる。 夜中に雨が降っていたせいだ。外にでると、まだ梅雨の気配が潜んでいるようで、しんわりとした、生ぬるい風が蔓延している。けど、太陽の光は相変わらず、ぐりぐりと私を押さえつけるように激しく照っていて、空間に違和感がある。  ぴしゃっと音がした。どうやら小さな水たまりに足をいれてしまった。頑丈にできている学校指定の靴は、水を通さないけれど、微かに泥がついてしまい、汚れてしまった。 太陽は照っていて、蝉はジリジリとうるさく、それなのに空気は湿っていて、水たまりもあって、なんだかちぐはぐで、曖昧で、こんなのは、私とあっていない。だけど、でも、だったら、私とあっている天気や環境なんてどこにあるのだ、と、考えてみると、そういえば、一日中、晴れた日でも太陽の圧が強くてちっとも好きではないし、雨の日だって、それはそれはじめじめと鬱陶しいし、曇っている日なんて曖昧で気味が悪く、そうだ、そうだった、私にあった、天気などあったためしがない、ということに気が付いて、なんだか今日はよくない日みたいです。  ここは小さな田舎で、小さな町。けれどそんなところでも、朝の通勤ラッシュというのは存在していて、いつだって、この時間帯は、電車の中に無数の人々が詰め込まれている、扉が開くと、誰か知らない、けれどきっとこの人だって、毎日毎日同じようにこの電車の中に詰め込まれている、であろうサラリーマンが、じろりと、おいおい、これ以上は入らないだろう、という目で訴えては、いるの、ですが、そういうわけにも、行かない。私だって、中学生だって、子供だって、女だって、この渦の中に詰め込まれて行かなければならない所がある。  人が放つ、熱気から湿気が蔓延している電車の中は、全てが濁っているようで、陰鬱で、まるで私たちこれから皆、死刑台に運ばれるみたい。横にいるスーツを着た男の人の顔を見ると、もう毒を吸収しているようです。ぼんやりと、憂いだ表情。斜めにいるイヤホンをした、私と同じ年かな、ぐらいの、他校の制服をきた女の人は、まだ毒に気づいていない、まだまだ釈然と、している。けれども、それは、まだ気づいていないだけ、いずれかは、私達、みんな、殺されてしまうのに。本当は、酷く恐ろしい死刑台へと向かっているのだから。  お母さんは、結婚式場で仕事をしている。昔、まだお母さんが幼かった頃、つまりは乙女だったころに連れていかれた、何処のだれだったのかはいまだに思いだせないその人の結婚式での、大変素晴らしく美しい思いで―が、そうさせたようです。純白のウエディングドレスに身を包んだ幸せそうな花嫁さんの顔。 一度決めてしまえば迷いのない、行動力過多なお母さんは、高校を卒業すると、大学への進学なんて見向きもしないで、そのまますぐに今の結婚式場に就職した。だけど、一度私を生むときに退職していて、そこからまた、いま、同じ場所で働いている。お母さんは、私にいつもこういう。「ウエディングドレスを着ている女性は、例外なく、綺麗よ、」と。そして必ずこう続ける。「間違いなく、自分が世界一の幸せ者だって、ことを信じているからね、いい、ゆりか、けれどもあなたは、その人たちのだれよりも、幸せ者になるのよ。」と。  学校の中はいつも湿気た絵具みたいな匂いがする、人が大勢いるのに、校舎はいつも冷たくて、あんまり好きになれない。三年目の年になっても、どことなくよそよそしい。学校の中には、半袖の子も長袖の子もそれぞれいて、私は改めて自分がおかしくないということを言い聞かせた。 教室の中に入ったら、人の間を通り抜けるようにして、自分の席につく。鞄からブックカバーがかけられた小さな文庫本を開いた。本は好きだ。中学校に漫画や雑誌を持ってくるのはダメだから、いつも小説を読む。けれども本ならなんでもすき。その一ページ、一ページの中の薄っぺらい紙が、私の中で膨らんでいく感覚が面白い。目で見て、頭で把握したら、感覚に集中をよせて、私はもう違う場所にいる。面白い。その場所は本当に私しか知らない。 後ろで騒ぎ立てている人たちも、端で不満ばかりいっているグループも、みんな知らない。手のひらで支えられるほどの小さな紙の束に、全てが詰まっている。本当の私は今その中に存在している。 ラクダの足跡が微かに残っている。ここにきっと、あなたはいたのですね。それはほんの少し前。私とあなたはすれ違い続けるのでしょう。とても惜しいのに、けれど決定的に、私達は、もう会えない。そんな気がするのです。  土は熱く、固く、もうすぐ沈む太陽に照らされ朱色に染まっています。息を吸うと鼻から口にかけて通る空気が、喉を乾燥させ、体全体が水分を欲します。けれど、ここにあるのはかためられた土だけ。いくら逆さにしたとこで、持ってきた水はもう、一滴もでない。 ルイ、ここにはなにもありません。すべてがむなしいです。けれどもかえって、私の心は安堵に満ちている。ここには、あれだけ私が愛した花もなければ、草木もなく、貴方が愛した、葉巻もない。私たち二人で過ごしたあの家もなければ、あなた自身さえもいない。  私には、今なにもなく、孤独で、いままで築き上げてきた歴史もすべて嘘のよう。何の価値ももっていない。けれども、ルイ、私の心はなぜか、落ち着いています。とても自然に。むしろ、幸せであるとさえ、いえます。 このなにもない砂漠は、膨大で、私はいま、自分の小さを知りました。残酷だと思うわ。けれどなぜかとても落ち着いて、幸せな気持ちです。涙がとまらない。水分などもうないはずなのに、涙がでてくるなんておかしい。 とても最低で冷徹なことを言います。ごめんなさい。けれども。私はいま、ようやくたどり着いたような気がする。今までの私の人生なんてすべて嘘だった。いまこの瞬間、この砂漠がすべて。膨大な、固く乾いた土に、乾いた空気、私はちっぽけな生き物だった。ここで、私がいくらあなたに愛を伝えたって、怒りや悲しみを伝えたって、何もならない、誰も知らない。孤独。むなしい。けれど、私の心はこんなにも、落ち着いて晴れやか。わかったの。私、今ようやくたどり着いた。 一限目は数学。勉強は別に好きでもなければ、嫌いでもない。その中でも数学は特にそうだ。得意でもなければ苦手でもない。頭の中のもの全部を外に出して、数式を、解いていくのは確かに気持ちがいい。でも、糸が切れたように、現実を思いだすと、途端につまらなくなる。要するに集中力との闘いだ。一問一問、まじめに向き合うように、けれども軽やかに、素早く、解いていく。授業内で終らせないと宿題になってしまうから、それだけは勘弁。自分で選択できる時間を数学なんかに使いたくない。一刻も早く元の、ルイとエレナの世界に戻らなければ。 静かだからこそ、響くシャープペンシルのコツコツとした、無表情な音。涼しげで乾いているエアコンの風。窓の外から聞こえてくる、体育の授業の声と蝉の音。今日は、プリントが中心みたいでラッキーだ。先生の話を聞くのは、げんなりするから、私はこうして一人で黙々と問題を解いていく方が好き。すべてがとても静かで整頓されている。もう少しですべての問題を解き終わることに気づいて、時間を確認する。時計の針は、もう少しでちょうど授業が終わることを教えてくれた。黒板の前に座っている先生は、欠伸をしながら退屈そうに、体育の授業を眺めていた。 さっきまでの緊張感が嘘みたい。授業が終わると、皆急いで自分の席から移動する。仲のいい子の元へと固まりだすと、途端にざわめいた音ばかりになった。だけど、それに気づいたのは最近のこと。私は次の授業の準備をしたら、急いでまたすべてを断ち切るようにして、机の中から本を取り出す。元の世界に戻らなくては。 本を開こうとしたら、ドンっと少しの衝撃がはしった。机が少しだけ傾いて、体が揺れる。本はしおりだけ飛びだして閉じられた。びっくりして、顔をあげると。目が合った。あっと、声をだして、驚いた様子。れいなだ。目を一瞬だけ大きく開けば、すぐに気まずそうにして、ごめんね、と呟いた。足をつまずけて、傾けた私の机をもとの位置に戻したら、れいなは、何もなかったように、通り過ぎていった。窓際の席へ小走りで向かって、西井さんたちの元へ戻れば、れいなはざわめいた音の一つとなった。 私は、本を開いた。ルイとエレナの世界に帰らなければ。教室の中はずっと人の声でざわめいている。だけど、私が本当にいるのは、エレナと同じ世界。今はちょうど砂漠。ページを開きながら、中断された世界を探す。ここは、もう読み終えたところ。私が帰るべき世界はどこ。 一文字一文字、目で見て、頭で理解して、大丈夫、大丈夫。私が今いるのは、エレナと同じ砂漠。膨大な乾いた世界。感覚を研ぎ澄ませて、大丈夫、私はそこにいるんだから。喉が渇く。周りは、皆、はしゃぎちらかして、ざわめいている。うるさい。元の世界に戻れない。鞄から水筒を取り出してお茶を飲めば、体が少しやわらかくなった。大丈夫。時計を確認すると、あと少しでこの休憩時間が終わることがわかった。 二時間目は地理の授業。先生が黒板に大きな地図のプリントを必ず張り出す。持参している伸ばし棒を使って、その地名を指さした。えーここに、アフリカ大陸があります。皆さんは、アフリカ大陸について、何か、知っていることはありますか。 心臓がつかまれたように、どくどくする。つまらない。地理の授業なんて嫌い。つまらない。興味がない。つまらない、つまらない。だけど、一生続けばいい。次の休憩時間だって、私はきっと変わらず、誰とも話さず、本を読んでいるだけ。私は、れいなに、いいよ、とも、大丈夫。とも言えなかった。けれど、れいなはそんなこと、必要としもしていなければ、気にしてもいないみたいだった。  早く家に帰ろう。この物語も、もうすぐに読み終わってしまうから本屋さんに寄ることを考えていたけど、その予定は中止。何だか早く自分の部屋に戻りたい気分だった。今がもし土曜日だったら、私は部屋の端で寝転んでいるだろう。土曜日だったら、お母さんも仕事で家にいない。自由気まま。  ここで教科書の三七ページをひらいてください。先生の言う通り教科書を開いたら、私は啞然とした。衝撃だった。そこにあったのは、果てしない世界。煉瓦色をした固められたような土が永遠と続いている。人も建物も何もない。私は息をのむ。空気が乾燥している様に感じた。気がこの狭い教室から遠のいていく様に錯覚した。一ページの薄っぺらい紙に印刷されているそれは、けれどもっと広く感じる。綺麗。素敵。間違いない。エレナがいた砂漠はここだ。 頭が呆然としてきたのか釈然としてきたのかはよくわからなかった。でも間違いなく興奮している。先生が続ける。これは、サハラ砂漠です。アフリカ大陸にある、砂漠です。聞いたことある人も多いのではないのでしょうか。 アフリカ大陸にある。アフリカ大陸にあるサハラ砂漠。心の中で復唱する。するとどんどん世界が広がっている様に感じた。それは、本を読むより感動的な感覚だった。素敵。こんな場所が、本当に存在している。見渡す限り何もない場所。アフリカ大陸あるサハラ砂漠。素敵。私はゆっくりと呼吸をして、一つ一つの時間を今度は味わうように研ぎ澄ませたら、想像する。乾いた空気。暑い太陽。固い土。なににも邪魔されていない大きな空。膨大な世界。そこに、誰にも気づかれずに一人でいる私。決めた。決意した。私は絶対ここへ行く。  それからの授業は、三時間目、四時間目と何も頭に入ってこなかった。完全に浮かれていた。チャイムの音で四限目の授業の終わりを理解すると、周りはまたざわめいた音ばかりとなった。夢から覚めたように冷たい現実を思いだした。ゆっくりと小さいため息をついたら、そうすることが決められた順番であるかのように私は、お弁当を食べようとした。お昼の時間だ。 鞄の中から、お弁当箱を取り出そうとすると、隣の席の平原さんに声をかけられた。   校舎の中を歩いていると、改めて学校という中に人が多くいることを再確認する。うちの学校は中高一貫だから特にだ。皆、お弁当を食べている人もいれば、学食を食べている人もいて、コンビニのおにぎりを食べている人もいる。とにかくざわめいている。 平原さんは、今日は西井さん達と合体して、一緒にお昼ご飯を食べるそうで、私の席を貸してほしいという。私は勿論、快く了承して、他に行くところがあるみたいに、机の上にだしたお弁当箱を鞄の中に戻してから、荷物をもって教室をでた。西井さんはいつも森本さんと二人でいる。今日は、森本さんも含めて、西井さんたちとお昼ご飯を食べているのかな。だとしたら、確かに少し大人数。七人になってしまうのか。 食べ物のにおいが学校中する。お腹がすいた。今日のお弁当は何なんだろう。お母さんのお弁当はいつも完璧だ。だけど、学食も教室も中庭もどこもかしこも人ばかりで、私がいれる場所なんてなかった。校舎の中を散策して、時間と体力だけが削られている。早くお昼ご飯を食べないと、午後からの授業が始まる。だけど、何処にも行く場所がない。チャイムがなって、五時間目の授業が始めることを想像するとぞっとした。本当は私、アフリカ大陸にいるはずなのに。今はどこにもいけなくて、チャイムが鳴る時間になると、狭いちっぽけな席に座らなければいけなかった。それは何だかすごく恐ろしかった。 不意に何か一種の諦めみたいな決断をして、全てを投げ出すように私は、保健室へと向かった。     保健室という場所が、落ち着かないはずなのに安心するのはきっと、ここが私のいる場所ではないということを、きちんと知っているからだと思う。壁も床も、傍にあるガーセの入れ物も、わざと親し気な口調で話をする先生も、全てが、白くて白くて白くて白くて、白々しい。体がだるいということを先生に告げるたら、私は、ここでは完全に一人ぼっちになれる。  渡された体温計を脇の下にいれると、誰かに軽くつねられたような冷たさが、覚悟はしていたけど気持ちが悪かった。昔から苦手なのだ。ひどくく無粋。この先端のちっぽけなぎらりと輝く銀が、いったい私の苦しさをどれくらいわかってくれるっていうの。 0度から三十度にあがった。三十度から四十五度。今は五十四度。このままとまらないで、どんどん上がればいい。私の平熱は、三十六度四分。お願いだからもう少しつたわって、私がいま普段通りなわけはないってこと、平均じゃないってこと、喉の奥からお腹の底まで、何かが詰まったように苦しくて、吐き出そうとすると、泣き出しそうになる。すると手の指先から足の指先の先々まで、その妙なツッパリが広がっていってしまって、そうなってしまうと、もうどうしようもなくて、死にたいくらい苦しいってこと。  軽率な音が終わりを告げて表示された温度は、三十七度。少しだけ眉をひそめた先生は、気遣うというよりは、ぶっきらぼうに私に聞く。どうする、微熱だけど、ベッド使う、それか家に帰る?私は少しだけ悩むふりをしたら、全身が救われたような思いで決断した。     今日は辛いので家に帰ります。 「そう、じゃあ先生には私から伝えておくからね。気を付けて。荷物を教室まで取りに行ける?誰かに持ってきてもらいましょうか。」 「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます。」 ゆっくりと椅子から立って、立ち去ろうとする。荷物は、鞄ごともう持っているのだ。 「あ、ちょっとまって、ゆりかちゃん。少しだけお茶でも飲んでからいかない。」 「え、あの」 「ほら、最近なんだか特に元気がないみたいだし、ねえ、何だかいろいろと大丈夫?」  電車の中は、朝とは大違い。人が全然いなくて椅子にだって座ることができる。混雑していなくて、時間が止まっているような透明感がある。学校を早退するなんて初めてのことだ。なんだか信じられない。鞄の底においている、スマホの電源をいれたら、お母さんに、学校を早退したことを伝えた。本を読む気にもなれなくて目を閉じた。すごく疲れた気分だ。でも大丈夫。今から家に帰るんだから。お母さんはまだまだ仕事だから帰ってこない。自由気ままだ。外は蝉の鳴き声がする。蝉の鳴き声は、嫌い。すごくうるさい。夏なんて大嫌いだ。 お母さん。お母さんは、今何をしているんだろう。お母さんはきっと、職場でもとても優秀に違いない。テキパキしていて、部下に慕われて、お客さんにだって感謝されているに決まっている。スーツ姿が似合って美人で、髪がベリーショートで、すごくカッコいいお母さん。だけど幸せにはなれないお母さん。 保健室で先生は言った。 「ゆりかちゃん、みきちゃんが転校しちゃってから、寂しくないかと思って、最近れいなちゃんともあんまり、一緒にいないみたいだし、大丈夫?あなた達三人、もともとすごく仲がよかったから。」 「大丈夫です。」 私は言った。信じられなかった。 「だけど、でも、最近一人でいるところをよく見かけるから」 「平気です。先生。私、元々、本を読むのが好きなんです。本当です。人といるより本を読んでる方が楽しいんです。」 「そう、でも」 大丈夫です。すいません。失礼しました。保健室をでると涙がでそうになった。信じられなかった。こんな風になんの準備も踏まないで内面に踏み込んでくるなんて、信じられなかった。 三か月前に、みきは転校した。そこから、私の日常は少しずつ変わっていった。それまで、私とみきとれいなは、三人組だった。クラスの中では目立たない、でもだからといってクラスの中から外れているわけではない。仲がいい三人組。だけどでもみきは転校してしまった。 それから、しばらくは私とれいなの二人組だった。でも私達二人はなんだか合わなかった。知っていた。あまり話すことが得意じゃない、なんの面白みのない私には価値なんてないってこと。私達三人組の仲の良さは、全部みきが繋いでいた。 それから、だんだん、れいなは休憩時間を中野さん達と過ごすようになっていった。それでも私はどこかでそれは、れいなと中野さんの席が近いからだと思っていた。クラスの中心にいる中野さんと、れいなには、大きな溝があるって、信じてた。でも気づけば、れいなは、お昼ご飯も中野さん達と過ごすようになっていった。大きな溝ができていたのは、私の方だった。 家の中は、凄く静かだ。電気より先にエアコンをつけると急いで、制服から部屋着に着替える。全部の力がぬけたような気がして、リビングに寝転ぶと、何かとんでもないことをした気持ちになった。早退なんて初めてで、お母さんにはなんて伝えたらいいの。どうしよう。熱を今更測ってみたって、きっともうあがらない。あの時はたまたまだったに違いない。それに三十七度なんて、たいしたことのない熱で今日一日をすべて放りだしてしまった。最低、私は最低。時計を見ると三時で、丁度五時間目が終わるころだ。今の時間は英語。新しいところにはいっていたらどうしよう。私にはもう何をしたかなんて教えてくれる友達すらいないのに。勉強がついていけなくなったら、いよいよ私には何の価値もなくなる。  お腹はもうすいていなかった。代わりに何か苦しいものでたくさんだったけど、お母さんが朝早く起きてつくってくれたお弁当を無駄にはできなかった。驚くほど重たくなった体を起こすと、食卓に向かって、さっき教室で開けるはずだったお弁当を開いた。  ブロッコリーに人参とピーマンの炒め物。プチトマト二個に小さい卵焼き一個。豚肉のアスパラ巻きに、海苔で包まれたおにぎりが二つ。お母さんのお弁当は完璧だ。まず卵焼きをお箸で崩れないようにしながらもって口の中にいれる。ほのかに甘いやさしい味のするお母さんの卵焼き。ブロッコリー、トマト、人参と食べ進めていくと、何だかたまらなかった。お母さんのお弁当は完璧だ。 お弁当の中身一つ一つを、口に入れるたび涙があふれた。保健室を出たときにでかけた涙が、今度は躊躇なく流れた。お母さん。お母さんは、今、何をしているんだろう。毎朝私のためにお弁当を作ってくれるお母さん。決して冷凍食品や市販のものは使わずに、毎日手作りのお弁当を用意してくれる、お母さん。  お母さんは、きっと、今日、このお弁当を作っているとき、私のことを思って作っていたに違いない。私が頑張って授業を受けれるように、なのに、私は熱だってないくせに、家に帰ってきてしまった。最低、最低。私はなんて弱いんだろう。  お母さんは、私みたいな子を産んで可哀想。私みたいな、教室でも一人ぼっちの暗くて弱虫な子供のお母さんで、可哀想。お母さんはずっと、可哀想。本当は、私がもっと、上手くやれたらいいのに。誰とでも話せて、面白い、冗談だって言える、中野さんみたいな。頭も良くて、顔だって美人で、勉強だって得意な、そんな子だったらよかったのに。可哀想。お母さんは今頃、スーツを着て働いている。可哀想。私を育てるためだけに、働いている。  お弁当を食べ終わって、自分の部屋のベッドに寝転ぶと頭が痺れてきた。さっきあれだけ泣いたから、疲れたんだ。目を閉じると、このまま眠ってしまいそうだった。だとしたら、次に目が覚めるのは、アフリカ大陸がいい。サハラ砂漠に今すぐにいきたい。そうじゃなければ消えてしまいたかった。明日、私は学校に行けるのかな。なんだかもう立てないような気がした。私は二度と学校には行けない気がした。学校にはもう行けない、行きたくない。明日、また、教室で一人、本を読んでいるところを想像すると、堪らなく惨め。ああ、私も可哀想。  お母さんは高校を卒業して、就職してからすぐに恋人ができた。そしてすぐに仕事をやめた。結婚すると、思ったからだ。お母さんは、仕事自体を愛していたわけじゃなかった。だけど結局、そうはならなかった。結婚はできなかった。その理由は私もよくわからない。それはでも、多分お母さんにとっては凄く残酷なことだった。そしてその時もうすでにお腹の中に私がいた。 私を生むことを、お母さんのお父さんとお母さん、つまりは、おばあちゃんとおじいちゃんは大反対した。まだまだお母さんは若く美しかった。けどお母さんは聞かなかった、だから、おばあちゃんとおじいちゃんに、私は会ったことがない。お母さんはすべてをきりすてた。そして一人ぼっちになってしまったお母さんのお腹から、私が生まれた。  目が覚めて、自分が今まで寝ていたことに気づいた。リビングの部屋の明かりが私の部屋まで漏れていて、お母さんが帰ってきていることを知った。時計を見るともう七時だ。ドキドキしながら、部屋をでてリビングへ向かうと、お母さんはちょうど台所で晩御飯を作っているところだった。  お母さん、と自分でも意識していなかったのに病弱そうな声がでた。お母さんは少しびっくりした様子で私の方へふりむいた。 「ゆりか、起きたのね。体の調子は大丈夫。」 「うん。少し眠ったら楽になった。」 「そう、熱は、あるの。もう一度図ったほうがいいわ。」 私は、救急箱から体温計を取り出すと食卓に座って熱を測った。 「ゆりかが、早退なんて初めてだから、びっくりしたわ。今日は食欲もないと思って晩御飯は卵雑炊にしたから。」  うん。と返事したら、リビング中に広がっていたお出汁の優しい匂いをより感じた。たまらなかった。熱があればいいのに、と思った。私の嘘が嘘じゃなくなればいいのに。  体温計に表示された温度は三十六度五分。奇跡はそうなんどもおきない。何度。と聞くお母さんの声が優しくて、私は裏切るような気持ちで答えた。 「三十六度五分。」 「そう、よかった。大したことないみたいね。明日は学校に行けそう?」 「わからない、まだ、少し体がしんどいから。」 本当は、うん、と応えなきゃいけない。だけど怒られると思っていたお母さんの声があまりにも優しくて甘えてまった。明日は、学校に行けるかわからない。 「そう、無理は、しなくていいわ。だけど学校の授業に遅れをとらないでね。もし、学校にいけないんだったら、きちんと友達に、授業でした内容を教えてもらうのよ。」 「うん。そうする。」 「ゆりかも、もう来年で高校生だもんね。あ、もうすぐそっちに雑炊をもっていくわ。」 うん。ともう一度答えた。お母さんは昔から私の言葉を信じすぎている。 卵雑炊は、お弁当と同じく愛にあふれていて優しい味がした。喉を通って体中にしみこむような温かさだった。食卓のテーブルはさっき、一人でお弁当を食べていた時とは違ってとても明るくあたたかかった。だけどさっきよりも随分と息がしにくかった。 「どう。これだったら、食べれそう」 「うん。おいしい。」 「よかった。きっと、夏風邪ね。今日は早めにねたほうがいいわ。」 「うん。」 空気が重苦しいような気がして、私はお母さんがテレビでもつけてくれることを祈った。静かな食卓では、スプーンと食器がふれあうカチャカチャという音だけが響いていた。 お風呂から上がると、お母さんはリビングで眠っていた。お母さん、私は声をかける。化粧をしたままでこんなところで眠ってしまうのは、よくない。だけど、お母さんはこうして疲れたまま眠ってしまうことも多い。それでもいつもお母さんは、私に先にお風呂に入るようにいう。お母さん、起きて。 私は、お母さんの体を揺らしながらゾッとした。恐ろしかった。お母さんの顔には、気が付けば、しわとしみがある。若くて綺麗だった私のお母さんは今年で三十五歳になって、顔にはしわとしみがあって、よく見れば、顔だけじゃない、手や首にだって、年相応に老いていた。  お母さん、と恐ろしくなって少し乱暴に呼んでしまったら、目を覚ました。ゆりか、どうしたの。お母さんは寝ぼけた声で言う。お母さん、お風呂でたよ、そんなところで寝てたらダメだよ。私は少し緊張していた。後ろめたい緊張感だった。 ああ、そうね、起きるわ。うん。と私はいった。ゆりか、お母さんね、今ゆりかの夢を見ていたの。お母さんは、まだぼんやりしている様子だった。 夢の中でゆりかはね、今より成長して大人になってた。面白いでしょう。そこでね、とても立派なお仕事について、素敵な大きな家に住んでいたわ。とても立派だったわ、ゆりか。ゆりかはても幸せそうで、傍にいる私まで幸せだった。幸せな夢ね。私はね、お母さんは、ゆりかが幸せなことがすべてよ。ゆりかの幸せが私の幸せだから。お母さん、ゆりかのために働いて、毎日頑張るからね。 眠そうなお母さんの顔は、化粧も半分ぐらい落ちていて、しわとしみがあって、疲れに溢れていて、とても恐ろしかった。  自分の部屋に戻って、ベッドに倒れこむと、自分の体がものすごく重たく感じた。苦しい。なんだかとても苦しかった。震えるように口から大きく息を吸うと、エアコンの風が乾燥していて、喉を乾かせた。この風が砂漠のものだったらいいのに。きっとすごく自由な風だ。だけど、手を動かしても足を動かしてみても、とても重かった。まるで錘につながれてるみたい。  息をもう一度、大きく吸って吐いて、でも無駄だ。落ち着かせようとしても涙がまた溢れかえった。 お母さん。可哀想な、お母さん。私の幸せが、一番だなんて嘘だ。それでもお母さんは、明日も仕事に向かう。本当はちっとも、働きたくないくせに。本当は人の花嫁姿なんて、大っ嫌いなくせに。お母さんがなりたかったのは、綺麗な花嫁さんを見送ることじやなくて、綺麗な花嫁さんそのものなのに。なのに、お母さんは、私を産んでしまった。 私は、お母さんが恐ろしい。お母さんのお弁当も、お母さんの顔もスーツ姿も、怖い。いつも私は、泣きそうになってしまう。お母さん、けれども、私は、お母さんのことが好き。あたたかい私だけのお母さん。すごく好き。だから、本当は、お母さんには、一番に、誰よりも、幸せになってほしいのに。 お母さんが、もし、私のことを忘れてしまって、やさしく感じの良い、男の人と結婚でもしてくれれば、そうなら、いいのに、お母さんが、私のことなんて忘れて、幸せになってくれれば、いいのに、そうなったら、私ももっと幸せに、羽が生えたように、気楽に楽しく、毎日を過ごせるのに。 決めた。私は、明日、学校に行こう。きちんと学校に行こう。勉強を一生懸命して、いい成績をとって、立派な大学に行って、お母さんを誰よりも、幸せにしてあげなければいけない。それは、私の役目だ。 教室の中で、一人ぼっちだからといって、どうもしない。制服を半袖にしたぐらいで気にしない。誰に何を思われたとしても、なんてない。私には、するべきことがある。大丈夫、もう二度と落ち込んだりなんてしない。早退なんてしない、仮病なんてつかわない。私は、明日学校に行こう。きちんと学校に行こう。私の強い決断だった。   秋の匂いが濃く、胸を突かれたような悲しみが深く体をむしばむ。初々しさあふれる冷たさと、老練した空気が正しくまじりあっている、つめたい秋の匂い。夏ではあんなに生き生きとしていた、緑の葉たちがそれぞれ、老いたようジュクジュクと、朱色に身を染め始めていて、その貧弱さと無慈悲さが申し訳ないほどきれいだ。  夏休みが終わって、授業が始まりもうすぐ一か月になる。私の中学生活はあと六か月程度で終わる。季節は秋になったし、私の制服はもうすっかり長袖だし、やっぱり死んだような満員電車に毎日乗っていて、学校につくと相変わらず、ずっと一人でいた。 私はあれから一日だって学校を休んでいない。勉強は前よりも頑張って、先生に褒められたこともあった。今度の中間テストでは、きっといい成績をとれると思う。高校の進学だって、今より上のクラスにいけるはずだ。 私はあと六か月で、高校生になる。 お母さんが私を、ベランダからよんでいた。なに、お母さん。 「ゆりか、ちょっと、こっちにきて、」 ベランダにでると、鈴虫が泣いている冷たい秋の夜だった。 「なに、お母さん。」 「ゆりか、みて、今日は星がとても綺麗よ。」 「きれいだけど、いつもとそんなに変わらないよ。」 「そんなことないわ、今日はいちだんと綺麗。」 「そうかなあ。」 「そうよ。」 「うーん。」 「ねえ、ゆりか、あなた、背がまた伸びたんじゃない。すぐにきっと私を追いぬくわ。」 「お母さんには、まだまだ追いつかないよ。」 「そんなことないわ、そうねえ、ゆりかも、もう高校生になるものね。楽しみね。」 「中高一貫なんだから、そんなに変わらないよ。」 「そうだけど、でも、素敵じゃない。これからもっと、綺麗になって賢くなって立派になっていくのね。お母さんはもう、おばあちゃんになっていくだけだけど、ゆりかの将来は、希望で溢れているのね。」 「寒いよ、もう部屋に戻ろうよ。」 「まって、まだもう少しこうしていましょうよ。」 お母さんが私に体を寄せたら、あたたかみのある重みを感じた。秋の夜は、寂しさに溢れていて確かに綺麗だった。    そうかもしれない、と私は思った。私のこれからの人生はきっと素晴らしくながくて、私には、まだ夢も希望も若さも美しさも、全部持っていて、だから、その代償として、未熟さとか無知とか、そういうのからくる不自由さは、あっても仕方がないことで、それを受け止めて、果敢に進んでいかなくては、いけなくて、でないと、きっと大人には、なれなくて、暫くのあいだは、長くて絡んでへばりつく、それに縛られ続けなくては、いけなくて、コドモと呼ばれる、私達はみんな、これと戦っているもので、私だけじゃなくて、だから大丈夫、大丈夫、大丈夫、なんだけど、でも、でも、でも、けれど、それは、いったい、いつ終わる。アフリカ大陸にいけるのはあと何年。 幸せね、とお母さんが優しく微笑んで、そうだね、と私は、また
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