遊び屋さん 柳井薫

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遊び屋さん 柳井薫

勝ってうれしい花いちもんめ  負けて悔しい花いちもんめ  隣のおばさんちょっと来ておくれ  鬼が怖くて行かれない  お布団かぶってちょっと来ておくれ  お布団びりびり行かれない  あの子が欲しい  あの子じゃわからん  この子が欲しい  この子じゃわからん  相談しよう  そうしよう  二つの寄せて返す波のような繋がりがぎゅう、と集まる。ひそひそ、内緒話をするために音を絞って、でも楽しさを隠し切れない幼い声があちらこちらで漏れ聞こえる。子どもたちの監督の看護師さんが日差しに目を細めて穏やかに見守っていた。  中庭から見える建物の窓からは、誰かしらのカルテを持った三十路の、僕にとっては手術の先生が、廊下を滑るように歩いていく。急いでいる様子はない。けれどたぶん、205Aの部屋に行くのだろう。  ふと、木が床を突いて、鈴の音が尾を引いて響いた。 「こんにちは。……今日は診察ですか?」  先生が軽く頭を振って会釈した。声を掛けたその先で黒樫の杖を突いた青年が、挨拶とともに会釈を返す。先生も知っている。僕ら子供も知っている。青年のこういう時は診察じゃないはずなのに、それの代わりになる言葉をいつも探している。第一、病院の入り口を入ってこの棟に来るまでに、彼の受診する科などとうに通り過ぎていた。 「いいえ、今日は遊びに」 「そうですか」  お世話様です、そう言って僕らの先生は少し困ったような笑みで青年を見送る。  黒樫がこつり囁いて、しゃん、と鈴音が高らかに応えた。  きーまった  まことちゃんがほしい  あきくんがほしい  いつの間にか内緒話は終わって、得意げな波の子たちが向かい合っていた。誰かがじゃんけん、と良く通る声で叫んで、寄せて返すのを楽しんだ波から二人外れて出ていく。 「やあ、泣いているね」  鈴音が桜の木の袂で止まった。三角座りをする僕の横に青年は立って、勝負をする子供の群れを、僕と同じようにぼんやりと見ている。 「泣いてないよ?」  心底不思議に思って青年を見上げた。頭の位置が随分高くて、後ろに反った首が地味に辛い。 「うん、でも泣いてる」  青年が杖を支えに、ゆっくりとした動作で座った。 僕は顔をぺたぺた触って確かめた。涙は出ていないし、何ならさっきまで特に何も考えてはいなかった。ただただ目の前の情景を面白いのか面白くないのかも特に思わず見つめていた。見てはいたけど見てはなかった、くらいに意味もなく、ただ。 「へんなの」  青年が杖を丁寧に置いたその手で、僕の頭を撫でるように軽く触れて離れた。 「君は……皆のところには行かないの」 「行った、けど」  思いがけずぶっきら棒な声が出た。彼が言葉にして、それで今になって何だかショックだった。せっかく車椅子じゃないのに、せっかく一人でお庭まで来られたのに。 「君が悲しいと思うことは、皆だって悲しいさ。君が嬉しいと思うことは、皆だって。何でもない風にする必要なんかないよ。お兄さんは君の笑顔だって、うん、涙だって見てみたいなあ」  ほら院長先生みたいな顔の人って怖いだろう? と青年が眉を指で寄せて、ムッ! という表情を作って見せる。あんまり似てない。 「で、でも、悲しいのは皆が困るから……」 「困らせてやればいいさ。そんなずるい顔で君を責めるあっちの勝手だ。だって君は何も悪くないもの」 「で、でも…………」  居た堪れない。困らせたくないと思うのは本心で、でも今彼を困らせているのは紛れもなく僕で。三角座りのままどんどん縮こまって、でもすっかり隠れてしまう場所もない。  不意に、青年の手が伸びて僕の頭の上に当てられた。俯きがちの僕の頭を、髪を手櫛で梳くようにゆっくりと撫でる。 「今日だけでもいいよ。俺の前だけでもいい。……そう例えばさ友達、あきくんがね、困ってるとしよう。みんなの前では空元気でさ、でも誰にも見られないところで泣いているんだ。友達なのに、どうしてだろうって思うだろう……」  青年の手が、僕の後頭部に沿って流れていく。 「大丈夫さ……大丈夫」  不思議だ。こんな言葉には何の根拠ものない。だけど重くどっしりとした確かさを僕に伝えてくる。ちょっぴり、いいのかもしれない。今日くらいは。 「Then the traveler in the dark,  Thank you for your tiny spark,  He could not see which way to go,  If you did not twinkle so…………」  お兄さんが僕の髪をくしゃくしゃ、と掻き混ぜた。そうして掻き混ぜたくせに僕のあっちこっちめちゃくちゃになった髪を、一束一束丁寧に戻していった。僕が少しの間顔を挙げなくてもいい口実、だったら、なんてこの人はお人よしなのだろう。 「さく、この子に………………」  そうして何かを我慢するように震える、この優しいお兄さんの小さく囁かれた声を、俯いて忙しい僕の代わりに、誰かが応えた気がした。  お兄さんが杖を突くと、鈴が鳴る。彼とつないでいる僕の手でも、衣擦れに交じって鈴音が鳴く。鈴付きの緋色のミサンガが少し誇らしい。揃いだとさっきくれたのだ。 「お兄さんはミサンガ、手に付けないの?」  彼のミサンガは杖の持ち手下の少しくびれて細くなっている部分に、引っ掛けるようにして結ばれていた。 「もう小さくなっちゃってね。足りないんだ、長さが」 「ふうん」  僕はゆっくりにしか歩けないお兄さんに合わせて、というよりも子供の僕には丁度いい速さで、息が上がることもなく横をぴたりと付いていく。とはいえ、ぜえぜえ大変そうにはならないけれど、鼻水でちょっと息はしずらい。 「どこいくの?」  病院はとっくに出ていた。郊外の住宅街に沿った、なだらかな道を歩いている。車はそこそこで、曲がり角を曲がってきた、ごみ拾い活動をしているらしい、小学校の子供の集団とその子たちを引率している先生とすれ違う。 「行きたいところどこでも。とりあえずわくわくするものがたくさんあるところにいこうかなと思って」  道の突き当りの信号を渡って右に曲がると、土手のある大きな川が見えた。無骨な鉄骨の橋が何本か架かっている。この川沿いは……何度か散歩に来たことがある。誰かに背を押されながら、あまり綺麗ではなかったけど川の流れをじっと見ていた。  お兄さんにそのまま付いていくと、川沿いのバス停で市バスに乗った。病院から出ているバスの路線じゃない。色が少し違っていて初めて乗る。  バスは橋に乗って川向うに走っていく。途中いくつかの駅で止まって、人が出たり入ったり入れ替わっていった。簡素な郊外の町だから、大きな病院行のバスと違ってもっと人気がないのかと思っていたけれど、ちゃんとした生活の移動手段で、人々の日々の営みを垣間見た気がした。  窓側の席で(ちょっと高いところにあるから空と屋根が主だけど)流れていく車窓の景色を目で追っていると、あっという間に目的地らしきところに着いてしまった。実際は何十分も乗っていて、結構遠いところに着いたらしいけど。 「ここ来たことある」 「……ああ、もしかしてあそこのホスピスに移る時かな。役員さんの車ここに立ち寄った?」  首を傾げかけたけれど、こくりと僕は頷いた。それなりに大きな駅で、沢山の人を吸い込んだり吐き出したりしていた。その入り口の脇で、市のマスコットキャラクターと写真を撮ってもらったはずだった。 「奥には行ったことないけど」 「じゃあ奥に行こう。いろいろ買い物できるところがあるんだ」  三時のおやつに食べ歩きでもしてみちゃう? とお兄さんはにっと笑って見せた。  ぴっぴ言う電子音が聞こえる開けた口のところではなくて、そこから一軒家二つ分くらい隣の自動ドアの入り口から中に入っていく。何だか外より白っぽくて明るい場所に出た。 「あ、髭のおじさんのシュークリームあるよ。黄色い看板の。おいしいんだよねここ」 「え、いきなりもう食べるの?」 「うん、食べ歩きしよ。そこに座ってさ」  座ったら食べ歩きじゃないんじゃ、と答える間もなく、僕はお店の正面のソファベンチに座らされ、お兄さんは購入口に並んで行った。あ、えいゆ●ぺいでとか言うのかな。 「お待たせ、はい」 「あ、ありがとうございます……」  現金だった。CMで言うほど電子マネー化進んでないのかな。  杖を立てかけて横に座ったお兄さんから、シュークリームと一緒にフロアマップが渡される。 「…………漢字多い……英語も多い……………………」 「ははは、お兄さんに何でも聞いてくれればいいさ」  とりあえず、地図は後で見るとして膝の上において、おいしいというシュークリームに齧り付いてみた。え、わ、うま。 「……あ、トイザr……s……?」  ふと、見覚えのあるロゴマークが目に入った。 「ああ、有名な玩具屋さんね。これ食べ終わったら行ってみようか」 「うん」  玩具屋さんは五階にあった。中々大きい建物だ。入り口付近にあったシュークリーム屋さんからは、エレベータがちょっと遠い。エスカレータは入り口近くにあったが、お兄さんの足を考えてちょっと歩くことにした。お兄さんは別にいいと言ったけど。 目にも鮮やかなショウウィンドウの数々が視界に入っては通り過ぎていく。服屋、靴屋、雑貨屋、服屋、……女の子が来たらはしゃぎそうだ。僕も見てるだけで結構面白い。 「入ってもいいんだよ?」 「……うーん」  そういう気分ではなかった。第一、色々あるなあとは思うけど、何を選ぶべきかはよくわからないし。  ふと、風船を沢山バリバリと割るような大きな音がして、僕は身体を強張らせた。お兄さんが大丈夫、という風につないだ手に力を込めて引いていく。僕は腰が引けながらもされるがままに付いてった。  上の階まで吹き抜けの開けた場所に出て、先程の音が拍手の音だとわかった。半円になった人の群れに囲まれたステージの上で、お姉さんが耳掛けマイクで皆に喋りかけ、テレビで良く見たキャラクターが踊っていた。 「……かっこいい」  僕が漏らした声に、お兄さんは目を丸くして、そっか、と頷いた。そのまま徐に僕を持ち上げて肩に乗せる。リンと微かに鳴って柱に立てかけられた杖が倒れそうだ。 「お、お兄さん、足…………!」 「そこまで軟じゃありません」  しゃがむわけじゃないし、と言って拗ねたようにして見せるのだから、同じように足が悪かった僕としては、はらはら落ち着かない。  降ろしてくれないまま、結局ショーイベントの最後まで乗って見ていた。 「あの、降ろしてください……」 「ん? 楽しかった?」 「いや、その、凄い楽しかったから、だから降ろして」 「ははは、エレベータまでね」  僕をからかって楽しんでいる節がある気がする。杖を突いていたくせに杖使ってないじゃん、と文句を言うと、補助的なものだからね、と返ってきた。  五階に着くと、玩具屋さんはフロアのほとんど半分以上を占有していて、その大きさに圧倒される。通路はちょっと狭いかな。いや、歩く分には申し分ないけど。 「ヒーローものとか、意外と好きなの? さっきのショーとかも女の子助けるぞ、っていう感じだったけど」 「うーん、カメレオンライダーとかは皆で見たりするけど……僕は何かを退治するのは、なんか、うーん」 「そっか」  ヒーローの箱を掴んだ男の子たちが目の前を駆けていったのを、何とはなしに目で追っていたら、その先に知っている玩具の棚があった。 「あ、ブロックのやつだ」 「ん? ああ。懐かしいなー。足で踏むと痛いやつだ。適度にツボを押さえてくる」 「なにそれ」  僕はディスプレイされている大人の人のすごい作品に、何だかテンションが上がるのが自分でも分かる。こんなとこに売り物の中身が置いてあるのが悪いんだよなあと思いながら、体験コーナーにあるトレーに入った部品状態のブロックを徐に組み立て始めた。ホスピスにあったやつには無かった部品があって、ふつふつと物欲が湧いてくる。 「それ、好きなの? もしかして作るのとか組み立てるのとか楽しい?」 「うん。ホスピスにもあった。もうちょっと古いけど」  がさごそとブロックを探るたびにそれなりの音が鳴った。 「じゃあ、電車の路線組み立てるのとか、積み木とかがわくわくしちゃう感じなんだね」 「んーそれは、机でやりずらいからあんまり好きじゃない」  動かないでやるのに線路のやつは明らかに無理があったし、積み木は机でやると高くなって途中でやりずらさを感じてつまらなくなってしまう。このブロックだとくっつくから手で持ちながら組み立てられるのだ。 「ああ。でも、もう座らなきゃいけないってことはないと思うよ?」  手持無沙汰のお兄さんが、体験コーナーの横にある本品の箱の写真をあれこれ物色しながら言った。 「うん、けど、やっぱりこっちの方が楽しい」  僕は恐竜を目指したつもりのブロックの塊を分解し始める。体験コーナーのブロックの量じゃ足りないのだ。 「よしよし、お兄さんが買って進ぜよう。どれでも好きなのどうぞ」 「え、でもホスピスにあるよ?」  僕は何だか身に余る感じがしてたじろぐ。看護師さんたちは、こういうのは高いっていつも困っている。 「子供が遠慮するもんじゃありません」 「でも」 「俺が買いたくなったんだよね。でも使わないから代わりに使ってよ理論で。ハイ」 「ええ……」  マイクを向けるように手が差し出されて、その手とお兄さんの顔を何度も交互に見ながら、結局頷いてしまった。僕のおすすめ商品まで聞かれて、きっかり僕好みの最強の玩具が包装紙に包まれて紙の手提げに納まった。  五階フロアをエスカレータで降りて、何とはなしにウィンドウショッピングをしながらも、自然と身体が入り口に向かっていく。建物の外に出ると、気づけば空は黄昏て、お兄さんの横顔の向こうが酷く眩しかった。 「他にどこか行きたいところ、ある?」  お兄さんがよいしょ、と肩に大きな紙袋を背負いなおして杖を握る。街角の喧騒に紛れて鈴がしゃらしゃら響いた。  僕は自分から何となく手を引いて歩きだした。お兄さんは逆らわずに付いてくる。 「ラーメンとか、お蕎麦とか、あの狭いたいしゅー? 食堂とかに入ってみたい」 「いいよ。夕ご飯にしよう」  食べたいものよりも、お店の雰囲気が好きだった。おいしそうな匂いとか、漏れ聞こえる陽気な笑い声とか。僕は一度も入ったことはない。困らせてしまうし。  予想外なのは夕ご飯を探して入るお店を決めるのが玩具屋よりも時間がかかったことだ。なんでもいいが一番困るという世のお母さんの声が初めてわかった気がする。結局、ぐーぐー訴えるお腹に逆らえなくて、僕らは「らーめん」という文字の暖簾の掛かった入り口をくぐった。  醤油ラーメンが売りの店だった。店員さんは子供の僕にも嫌な顔せず、大きい声でいらっしゃいと言った。 「食べきれなかったら俺食べるから、好きなのどうぞ」 「食べきれるもん」 「えー、こんなおっきい丼ぶりだよ?」 「お客さん、お子様ラーメンありますよ! どうですか!」  発券機の前で言い合っていると、見かねた店員が出張って来て変わらずの大声で白い歯を見せた。せっかく来たのだから僕からすれば「お子様」というのが気に食わないのだが、お兄さんはじゃあ、それと焦がし醤油ラーメンに味玉トッピングで、とさっさと頼んでしまった。 「なんか美味しそうな注文……」 「すみません、ついでにとり皿もください」  はいよー! と言いながら店員は僕らをカウンター席ではなく、お店唯一のテーブル席へと案内した。余談だけど今のナイスなお兄さんが直前の言い合いをどうでもよくしたと思う。そうだ、お兄さんには僕のお子様のをあげよう。  程なくして運ばれてきたラーメンを、うまうま呟きながらスープの一滴までお腹に収める。熱々の湯気がまた鼻水をぶり返させたけど、それはお兄さんも同じで。ごちそうさまでした、と示し合わせる訳でもなく一緒に言って、自然と笑みが零れた。 「店員さん、おいしかったです」  お店にもごちそうさまでした、と声を掛け、来たときとは逆に暖簾を捲って外へ出た頃には、辺りは墨を流したようにとっぷり暮れていた。 「さあ、行こうか」  お兄さんが手を差し出す。僕は鈴を鳴らしてそれを握り返し、何となく最後なんだな、と直感した。  彼は、もう、僕に行きたい場所を尋ねはしなかった。  霧って白いものだと思っていたけれど、実際のそれはただただ身体に纏わりつく白っぽい闇だった。握っているお兄さんの暖かな手と、不思議と良く聞こえる黒樫と鈴の音が唯一の頼りで。お兄さんがいなかったら僕はこの濃霧の中を逃げ出しただろう。どこへ逃げればいいかもわからずに。グリム童話に出てくるドイツの黒い森はこんな感じなのだろうか。 「ねえ、今どこ向かってるの?」  背の低い草木や落ち葉を踏みしめる音だけが響く。お兄さんは何か迷っているようで、でも結局、船だよ、とぽつり呟いた。  船。船なんてこの町の近くにあっただろうか。そもそも海なんて。  僕の思考は唐突に打ち切られた。 「本当の幸いってなんだろうね」 「さいわい?」  お兄さんの口から言葉が漏れ出す。船とか海とか考えていたから上手く反応できなかった。 「そう、幸せのこと。一生がたった十年ちょっぴりしかなくて、病気で病院から出られなくて、お見舞いに来る人もいなくて」 「……ホスピスは楽しかったよ」 「そうだね。俺も楽しかった、あそこは」  そういえば、お兄さんは僕の手術の先生と知り合いだった。院長先生とも、病院の看護師さんたちとも、ホスピスの看護師さんたちとも。彼の言葉がある事実であって、それが見ず知らずの人が叫べば刃になるのに、彼の声は決して僕を咎めはしなかった。僕を咎める刃はきっと、自分にも深々と刺さる。 「僕は不幸せだったのかな」 「周りから見たらね。不幸な場所なんだよ、ホスピスは」  あっけらかんとした声色だった。苛立ちと諦念、空元気と昼間の陽気さが綯い交ぜになって、結局は何も気にはしないといった風な様相になっていた。たぶんそれが答えなきがするけどなあ……。 「今日は楽しかった?」 「……うん、とっても、すごく。すごかった」  お兄さんは、そう、良かった、ともごもご言った。僕の顔を見てにっこり笑って話す彼と今の彼は同じ人なんだなあとぼんやり思った。 「君の前の子がね、言っていたんだ。私の不幸せが今日のでちゃらになったとして。でも、私は幸せ? プラマイゼロ? そもそも、ちょっと前まで自分が不幸せなんて知りもしなかったから、プラスとプラスで最高に幸せ? って面白い子だったよ」  君も面白い、と彼は僕と繋いだ手をぎゅう、ぎゅうと力んだり力まなかったりした。たぶん両手が塞がっていて、僕の頭を撫でるかわりだったのだろう。 「僕も、三番目かな……」 「へえ、またどうして」  霧が少し晴れてきて、水音が聞こえる。いつの間にか普通の視界に戻っていて、後ろを振り返ると白い靄みたいなのが揺蕩っていた。前に顔を戻すと月明りに照らされた穏やかな海が広がっていて、海面の真ん中を渡るような白い道がそこにあった。僕らのいる丘の下の岸辺に一隻船が止まっている。  僕は深く息を吸って吐いた。 「……幸せじゃないのは不幸せなのかな。不幸せじゃないのは幸せなのかな」  言いながら考えた。お兄さんは僕から何を拾おうとしているのだろう。出来るなら、この言葉が彼への刃にならないといい、と僕は願う。 「僕にとって親がいないことと歩けないことは、幸せでも不幸せでもなかったんだ。そういうもんだって思ってた。それをわざわざ、不幸せにする方が、なんだか苦しいよ」  僕の手を握るお兄さんの手が強張った。 「だから今日が楽しくて、笑えて、困らせることも何でもなくて、それは嬉しいことだったよ。それだけが僕、いっぱい詰まってるんだ」  僕は笑った。ラーメンを食べた後みたいに、努めて自然に。 「……そっか。最高だね、幸せばっかだ」 「うーん……幸せは、僕ちょっとわからない」  ははは、とお兄さんが笑って僕の手を引いた。丘を下って船の前までくる。船はなんだか海賊船みたいにかっこいいやつだった。男のロマンだとか言うやつ。 「最後は船なんだ。僕、初めて知った」 「そりゃあね。あ、でも船だけじゃないよ。いくのはね、何でもいいんだ。鉄道でも飛行機でも、空飛ぶ家だって」 「え、何それ、すごい」  お兄さんは桟橋に沢山置かれたランタンの一個を手に取って火をつけた。脇に挟んだ杖が少し邪魔そうだった。 「暗いからね、これ持ってね。じゃあ」  僕がランタンを受け取ってしばらくもしないうちに、お兄さんが別れの挨拶を切り出した。当然だとは思ったけれど、お兄さんはいかないんだ。  不意に孤独感がのどの奥からせりあがってきて、咄嗟にお兄さんの服の裾を掴んだ。 「お……ごめんね、お兄さん」 「……いや、ううん。なんで君が謝るんだ」  僕は首をぶんぶん振った。何を振り切ろうとしているのかは自分でも分からない。 「僕、幸せだからね」  お兄さんは少しだけ目を見張って、にっこり笑う。 「いいね、君が幸いなら、僕も幸いだよ」  お兄さんが僕の髪をぐしぐし掻き混ぜて、そして丁寧に直していく。  それが僕らの最後の会話になった。  僕はランタンを持っていない手を勢いよく振る。お兄さんが手を顔の横に上げて応えたのを認めて、船へ走った。歩いていると絶対に振り返ってしまうから。鈴がしゃらしゃらうるさくて、この音を持っていけることが一番の幸いだった。 ——ばいばい、嘘つきのお兄さん。 ——一緒の船に乗れなくてごめんね。 「バレてたな、少年」 「……さく」  少年が青年に少年と呼び掛ける珍しい光景が展開された。霧を身体に取り込んだみたいに、髪も目も灰色がかった白い少年が桟橋を歩いて傍に来る。 「俺、もう少年と呼ぶにはきつい年齢だと思うんだけど」  出ていった船がランタンの光でぼんやり光っていて、月の道を上っていく。二人そろって出港したその船を見つめていた。船に乗れない俺たちはここまでしかいけない。 「じゃあ、青年。悪いないつも、こんなことばかり」 「名前で呼べばいいのに。……いいよ。俺がしたいことだし。さくこそ、いつも身体貸してくれる」  幽霊みたいなやつは現実のものに影響を及ぼせない。たとえ、生霊であっても、どんなに想いがあっても。それで、霧に飛び込めない魂に置き去りにされた身体が死にきれないまま、人工呼吸器で無理やり生かして、生きてて良かったなんて、誰が言えるのだろう。 「私の身体はそれしか使い道がないからな。正しく人間でもあるまいし」  少年が肩をすくめる。 「神様がそんなこと言ってどうするの」 「違う、神様なんかじゃない。私は未練だ。子どもたちの未練だって前に言っただろう。第一、神様なんて私も会ったことないぞ」 「俺にとっては神様だよ。ホスピスにいたのに生かしてくれた」 「……生きられたら幸せなのかって前の前の前の子に聞いていただろう。私はお前は不幸せだと思っていたのだが」  違う、と思った。ぶんぶんと首を振るのが、ランタンを持って走っていった少年の真似みたいだ。だって、あなたが俺を生かしてくれたことが不幸せなんじゃない。 「俺はあなたが幸せじゃなきゃ不幸せなんだ。だから、あなたが幸せにしたい子供たちも幸せにする。悲しい最後にはさせないと思った。……俺も嫌だし」  白い少年が少し考え込むように、口に手を当てた。 「いやなに、私はな、青年。君が幸せにならないかと、ずっと思っていたんだが」  え、と言葉にならなかった。それじゃあ、そんなの。 「……堂々巡りだな」  俺の頭には届かなくなった手が、代わりに背中を叩いた。少し低い位置のそこだけが末端の体温を奪って熱を帯びる。  俺たちは。  ホスピスを出られずに、いってしまった子供たちとホスピスを出た青年。その狭間にいる少年も。一体何が違っていたのだろう。 「先生、これお願いしてもいいですか」  杖を突いてやってきた馴染みの青年が、そこそこ大きな紙袋を寄越す。 「これは?」 「玩具ですよ。今日火葬するでしょう。入れてやってください。だめだったら一緒に埋めてもらうだけでもいいので」  前にもあったでしょ、そういうの、と青年は早口に言った。 ああ、いつもこうやって持ってくる。唐突に。この子はいつもこうだ。青年になろうがなるまいが、私たちが命を助けても、何か抱えきれないものが零れそうになっている。そのほんの僅かだけを私たちに渡して。もっと、もっと寄越せばいいと思わずにはいられない。 「わかりました。……そういえば、最近ちゃんと食べてますか? 大学はどうです? 義足だとちょっと大変でしょ」 「ははは、先生近所のお爺さんみたいなこと言ってますよ」  当然じゃないか。私たちは彼の育ての親みたいなものなのだ。一人の君が心配なのは当たり前で。頼る血縁の代わりにしてくれと思うのは私たちのエゴだろうか。 それに。それに、彼は。 「今日は診察ですか?」 「はい、先程。でちょっと野暮用を」  青年が窓の外を見た。日に当たった表情が柔らかい。今日は普通に遊びに来たのか。 「そうですか、子供たち喜びますね」  青年は目を細めて笑った。昔はもっと眉が寄ってぎこちなかったが、存外穏やかに笑うものだ。 「はい。では、また」  私たちの唯一人の生きられた子が、杖を突き鈴を鳴らして歩いて行った。きっと、今日は天気がいいから楽しいことだろう。  Row, row, row your boat  Gently down the stream.  Merrily, merrily, merrily, merrily,  Life is but a dream………… 【作中引用】 Mother Goose’s rhymes – Twinkle, twinkle, little star(マザーグースの歌 – きらきらちいさなおほしさま) Mother Goose’s rhymes – Row, row, row your boat(マザーグースの歌 - 漕げ漕げお舟)
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