いぬとまくら 杏栞しえる

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いぬとまくら 杏栞しえる

朝、心地のよい風と共に目覚めた。外では紅葉した木々が揺れ、近くの公園もすっかり様変わりしている。コーヒーが似合いそうな景色だと思った。近所の子供たちは一切出てきていない。それもそうだった。私にとっての休日は他の人の平日なのだ。彼らは学校に行ったのだろう。時計を見るとやはり十時を指していた。やっと動き出したかと思えばカップラーメンを手にしていて、家庭的なんてイメージとはかけ離れている。住宅街に似合わない、自分でもつくづくそう思う。しかしここにいると妙に落ち着くのだ。子供たちの登下校の声や、夕食時に流れてくるカレーの匂い。「生きている」実感が湧いてくる。推理小説で何人も殺してきた身としては束の間の休息のような場所だった。  テレビをつけるとニュースも一通り終わり、旅番組などがやっていた。ちょっとした崖や山の景色を見つけるとすぐにメモを取る。これももう職業病のようなものだ。知らない土地の方が小説には書きやすい。私の「リアル」には浸食してこないからだ。次回作は冬の山小屋が舞台になっている。これも私が一度も登ったことがない山をモデルにした。テレビでのネタ探しにも飽き、私は窓辺で本を読み始めた。掃除好きな女の人のエッセイだ。元々物が少ないせいか、本の置き場所以外には悩まされたことがない。これは度を超えたミニマリストの末路をネタに出来ないかと思って読み始めたのだ。しかし著者の自宅の写真を確認すると、床には一切物がなく数着の服が「見せる収納」として置いてある。私はこれじゃ人を隠す場所がないと思った。思わずため息をつき本を閉じる。ふと窓の方を向くと、遠目に段ボールを持った女の人が見えた。何気なく目で追う。身長は高めで栗色の毛は腰ほどの長さがある。カーキのジャンパーに細見のパンツ。自然とメモを取っている自分に苦笑してしまった。 「今日は休日にしようって思ってたのにねぇ」  そう言ってから仕事用の眼鏡をかけて、さらに窓の外を見た。段ボールはどうやら引っ越し用ではないらしい。底を持ってはいるがガムテープなどはしておらず、上がぱかぱかと開いている。時折足を止めて中を確認しているようだ。私は目を凝らした。 「公園に入って草むらに置くって、まさか爆弾じゃあるまいし」  眼鏡をかけ直し、もう一度見た。女の人は心配そうに何度も段ボールの方を見ている。 「まさか、誰かに脅されて……」  そう思うと不安でたまらなかった。近くの公園とはいえマンションの方までの威力があるとは思えないが……。近所の子が近づいたら危険だ。光沢のあるベージュのジャンパーに腕を通しきっちり前を閉めた。万が一パジャマが見えたら恥ずかしい。    戸締りを確認してエレベーターに乗る。一階のボタンを何度か押し、数秒で降りた。公園はすぐそこだがベビーカーを押した若い女の人が前方にいる。公園に入るギリギリで抜かすと、先ほど見た草むらの方に駆け寄った。 「良かった。まだあった」  私の小説上ならば、こんなにわかりやすく爆弾を登場させたりはしないだろう。せめて紙袋くらいには入れてほしいものだ。そう考えながら恐る恐る手を伸ばす。すると中から微かに音が聞こえてきた。明らかに爆弾のような不気味な音ではない。くんくんと鳴いている。何かがいる音だ。段ボールをぐっと引き寄せ、中を見た。 「わぁ、可愛いわんちゃん!」  びくっとして振り返るとさっきの女性だった。ベビーカーの赤ちゃんもキラキラした目でこちらを見ている。中には三匹いた。黒い毛色の子と茶色と黒が混じったような子、最後の一匹は種類が違うようで、トイプードルだった。二匹はザ・雑種という感じで、お相撲さんのような顔をしている。潰れたお顔には賛否両論あるだろうが、ふわふわした毛が何ともいえなかった。トイプードルの方はもう少し大きくなっていて、子犬ながらにかしこそうだ。 「捨てられちゃったんですかね?」  若いお母さんもしゃがみこんだ。 「そうだと思います」 「飼ってあげたいけれど、この子もまだ小さいですし……」  そう言うと後ろを見て優しい笑顔を送った。 「私のマンションは……一階ならペット可なんですけどねぇ」 「あぁ、奥さんもあのマンションなんですか」  奥さんというワードにたじろぎながらも、軽くうなずいた。 「残念ですけれど、保健所に連絡するしかないですよね」  その時、トイプードルの子とばっちり目があった。あってしまった。私なら基本的には家にいるし、この子たち、飼えるかもしれない……。独り身で、もう結婚などもないだろう年だ。まだまだこれからという人もいるだろうが。 「私、この子たち預かります」 「え、でも、あのマンションて……」 「ちょっとの間、管理人さんには内緒で」  内緒ポーズをすると、若いお母さんは微笑みながらうなずいた。段ボールを持ち上げるとくんくん鳴く声が一層強まり、ずしりと重みを感じた。あぁ、結構腰にくる。  こそこそと泥棒のような足運びで私は玄関の鍵を回した。そのまま風呂場まで持っていく。 「ちょっと待っててね」  後ろの三匹に話しかけながらシャワーをぬるめに設定した。こわごわと一匹ずつ体を濡らし、拭いていく。 「これで、よしっ」  バスタオルに三匹をくるんでキッチンへと向かった。クッションで簡易的に居場所を作ると二匹はころりと寝てしまった。微笑むとトイプードルの子と再び目が合う。 「おなかすいたの?」  その子は途端に目を輝かせた。冷蔵庫の中身を思い返しながら、結局茹で野菜をあげることにした。 「おいで」  私が声をかけるとただ起きている一匹が駆けてくる。 「よしよし、おりこうさん」  くるくるした毛は愛用しているカーペットと似た感触だ。そして、じんわりと熱が伝わってくる。よろよろと立ち上がって通帳を引っ張り出した。 「うーん、まぁ一階も三階も家賃はたいして変わらんかぁ」  通販で子犬用のあれこれをぽちりした後は、するりと眠りに落ちていた。  ピンポーン。その音で起きた私は子犬たちを起こさないように立ち上がった。 「あ、玄関の前に置いておいて下さい」  それだけ言うと小走りで玄関に向かう。外に大きい段ボールが届いていた。中はすべて今日注文した物たちだ。箱から最初に彼らのご飯を取り出し、それから小皿を三つ用意した。 「だいだいこのくらいかしら」  スマートフォンを片手にお湯を注いでふやかす。匂いに釣られたのか、子犬たちはさっそく足元に集まって来ていた。 「あらあら、さっきまで固まって寝てたのに」  先ほどまで三匹は互いの体に頭を乗せ合って寝ていた。まるでまくらみたいに。 ふやかしたフードを冷ました後、足元にそっとお皿を置いた。ガツガツと食べる姿はたくましく、微笑ましい。まるで母になったような気分だ。彼らのケージを組み立てる時も悪戦苦闘する自分を奮い立たせた。 子犬たちの事が一段落すると、下校の時間なのかにぎやかになっていた。知らぬ間にあれから何時間も経っていたのだ。窓を開けると、冷気と共にどこからかカレーの匂いが漂ってきた。ぎゅるるるるるるる。腹の虫が騒ぐ。 「そうだ。今夜はカレー味のにしよう」  寝ている子犬たちを横目に、私はカップラーメンを二つ取り出した。やかんを鳴る前に止め、食器棚もゆっくりと開いた。もちろん閉じる時も静かに行う。三分待ちながら、天使たちの寝顔を確かめた。 「しばらく殺しのアイデアは浮かびそうもないわね」  黒縁眼鏡を外して、勢いよく麺をすすった。
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