チッチゼミの恋

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チッチゼミの恋

 きっと僕は、人間だった。  彼らが『感情』と呼ぶものを僕は持っていた。  日がな一日、電柱に貼りついて幼なじみを覗き見しても、ストーカー呼ばわりする者はない。そりゃそうだ。僕は蝉だ。台風を五つ数えても、まだ生き粘っている蝉だ。  稲刈町のたっちゃんは高校球児になるのが夢だったのに、今は洒落たオフィスの八階で『営業二課・榎本』のネームプレートを首から提げている。  朝から上司に叱られて、給湯室で溜息はもう何回目?  チェッチェッチェッと舌打ちして、自販機を蹴とばしている。  チッチッチッと僕は、窓越しにエールを送る。    輪廻転生を知っているか?と、昔、たっちゃんは僕に言った。  中学二年生の夏休み、車に跳ねられてポーンと自転車から投げ出された僕は、真っ青な空を一匹の蝉が横切るのを見た。役場前のバス停では、たっちゃんが僕を待っている頃だった。また遅刻かよ、ってアイスキャンデーを買わされるはずが、僕が小銭を数えることはもう無かった……。  たっちゃんに辞令がおりた。僕には到底、飛べそうもない遠くへ行ってしまうらしい。小さなダンボールを抱えて、大きな背中が三割減、縮んで見えた。僕は知っている。こういうの『飛ばされる』って言うんだ。  出来る限り高い所へしがみつき、僕は二センチのカラダをちぎれんばかりに伸ばした。この身がもし人間ほどに大きかったら、千キロ離れようと声を届けられるのに。    僕は、たっちゃんと同じ高校に行きたかった。  ずっと親友でいたかった。  ひきだしの奥に仕舞ったアタリ棒は、まだ三本あったはず、  もっと、待ち合わせしたかった。僕は……、  僕は、  僕は、  僕の……、それはきっと、初恋だった。  チッチッチッチッチッチッ……、チッチッチッチッチッチッチッ……、  チッチッチッチッチッチッ……、チッチッチッチッチッチッチッ……、  チッチッチッチッチッチッ……、チッチッチッチッチッチッチッ……、  よく晴れた午後、眩暈のするほど日差しの強い、十月の月曜日。  サヨナラの涙を流すこともできない僕は、腹の底からガンバレを叫び続けてオシッコを漏らした。(はね)は灼け、カラカラに涸びたカラダにはもう、どこへと掴まる気力もない。  金木犀の香る里へかえりたい。  役場前のバス停で「明日は何しようか?」なんて、たっちゃんと夕空を見ていたい。  やがて僕は、アスファルトへ落ちていった……。                                僕は眼を開いた。  手足を丸く縮めて真綿に包まれている。  ぼんやりと霞む視界にオレンジのカーテンが揺れて、僕がギャアと声をあげるたび、夫婦は笑いさざめいている。男は調子外れな『ゆりかごの唄』を繰り返し、震える両手で、王に献上品を捧げる恭しさで僕を抱きあげた。  ベッド脇に置かれた半紙は見覚えのある右上がりのクセ字が懐かしい。  僕の新しい名前だ。     命名  榎本 犀生(えのもとさいせい)  嗚呼……、こんなはずじゃなかった。      
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