パイナップルの缶詰

3/3
前へ
/3ページ
次へ
「と、いうのが、僕とカナタの馴れ初めなんだけど。」  数学科準備室のカーテンを握りしめて、オレは混乱する頭で、ヒロキくんの声を聞いていた。  3年ぶりの再会。  いつのまにか会わなくなってしまった近所の年上のお兄さんは、入学した高校で数学教師をしていた。  再会の喜びと興奮と。  空白期間に感じていた胸の痛み、と。  混乱に追い討ちをかけるのは、唇に残る、感触。 「ひ、光源氏か?」  ヒロキくんは、吹き出した。 「文学に詳しいんなら、さ。」  眼鏡越しの優しいまなざし。 「中学生に上がる直前の男の子の膝の裏が、一番萌えるって言ったのは、安部公房だっけ?」  なにそれ。ヘンタイ? 「まずいと思ったんだよ。思春期直前のカナタが、あまりにも。」  眩しくて、とヒロキくんは恥ずかしげもなく言った。  カナタの信頼も、君のお母さんの信頼も、失いたくなかったんだよ、と。 「会いたかったんだ。」  オレは繰り返した。 「ヒロキくんは、理由も言わずに…」 「理由は、いま、言った。僕はカナタのことを、そういう対象として見てるよ。  さすがに赤ちゃんのときからじゃない。  成長するのを見てきた。  だから、その成長を邪魔するようなことは、したくないと思った。」  片想いに関してはプロフェッショナルみたいなものだからね、とヒロキくんはちょっと寂しそうに言った。  5月の風が、カーテンを膨らませる。 「今度、うちに来て、パイナップルの缶詰を食べる?  あのとき買ったものを一つだけ取ってあるんだ。  願掛けが続いているんだよ。  もしも両想いの相手が出来たら、開けようって。」  なんだよ、それ。何年前の缶詰だ。 「腹こわすよ。そんなの。やめときなよ。」   オレは言った。  でも。 「ヒロキくんの家には、行く。今日、行く。」 「さっきの続きが、したいの?」  ぞくり。脊髄を何かが駆け抜ける。 「カナタの知らない世界を、こじ開けて、食べちゃってもいいの?」  でもまずいなぁ、カナタが卒業するまで待たないと、とのんびりした口調でヒロキくんは言った。  待つのもプロの領域に入ってるんだ、と。  一緒に食べるんだろ?  オレは言った。  オレは、ヒロキくんみたいに、片想いも待つのも、プロじゃないからね。 「オレは待てない。」    2才のときみたいに、君はわがままだ、とヒロキくんは言った。  風で膨らんだ、埃っぽいカーテンの中で、唇がもう一度重なった。   《完》
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加