《1》重篤

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   * 「気をつけてね。」 「ありがと! ……って、それどういう意味? 後はもう私、この部屋から出るだけなんでしょ? あ、戻った先でってこと?」 「はは。そういう意味もあるかもねぇ。」 「あはは、そうだね。またアカルのお世話にならないようにしなきゃね!」  目の前の女性は、くるくると表情を変えながら、大きく口を開いて笑っている。  二年前、死人じみた顔でここを訪れたときとはまるで別人だ。今の彼女の顔も、声も、生きる希望に満ち満ちている。  この人の傷は完治した。後は元の世界へ戻り、歩むべき道を進んでもらうのみ。  できることなら、またこちらへ訪れることのない、豊かな人生を歩んでほしいと思う。そうでなければ、僕がこの人の治療に携わった意味がなくなってしまう。 「……じゃあ私、そろそろ行くよ」 「うん。」 「元気でね、アカル。あーあ、私が触ったらアカルの寿命が縮むって話じゃなかったら、戻る前に一度抱いてほしかったんだよなぁー!」 「あはは、やっぱり最初に言っておいて正解だった。サユリみたいな女の子に不用意に触られたら、命がいくつあっても足りないよ。」 「うっさいバーカ、チャラい童顔茶髪の癖に! 反則だよ、触っただけで寿命が縮むなんて。キスもできないとかマジで最悪」 「待って待って、チャラいってなに? 童顔だって結構気にしてるんだぞ、軽い感じで貶(けな)すのやめてもらえます?」  あはは、と彼女はまた高らかに笑う。  軽口を叩き合えるようになって、どれほどの月日が経ったか。初めてのそれが遠い昔のことに思える程度には、今の彼女の表情は明るく、光り輝いている。 「けどほら、サユリはとっても綺麗な人だから。向こうで幸せになれるよ、僕のことなんかすぐに忘れてね。」 「……忘れないよ。椿の花を見たら、そのたびに思い出すと思う」  椿、という言葉を強調するサユリは、少々不服そうだ。  椿は僕の本体だ。こちら側の人間は皆、物に宿った思念体が人の形を成したものであり、特に僕らのような役割を担う者たちは植物に宿っている場合が大半だ。  実体ではない。今の彼女は、まだ。  だから、今の彼女の姿は、初めてここを訪れた当時とほぼ同じだ。  肩の上で緩く巻かれた明るい茶髪に、十分派手と呼べる化粧。着ているものだけが例外だ。今、彼女は女性患者用の地味な着物を着ている。当初との違いはそのくらいだが、それも、向こうに戻れば彼女が普段着用していた衣服に戻るはずだ。  なにごともなかったかのように、なにもかもが元通りになる中で、果たして彼女の心にはどれほどこちらの記憶が残り続けるだろう。どれほどの間、僕の記憶が留まり続けるのだろう。 『忘れないよ』  きっと、その言葉はサユリの本心だ。  サユリは嘘をつかない。それは、決して短くはない治療期間を通して僕が理解した彼女の本質だ。  しかし、向こうの人間は――彼らの心のあり方は、時にこの上なく残酷だ。 「じゃあね、アカル。ばいばい」  減らず口の合間に覗いた彼女の本心には、気づかなかったふりを貫くことにする。  そんな僕のごまかしも、サユリにはすべてお見通しなのかもしれなかった。だが、それでもサユリは、そうと分かっていてそれを許容できる程度には聡い。 「うん。ばいばい。」  口元を緩めて零した僕の最後のひと言に、サユリは、扉の取っ手に指をかけたきりで振り返ってにこりと微笑んだ。そして、それ以上なにも言わずに出ていってしまった。  彼女の両目が濡れて見えたのは、単なる僕の気のせいだと思うことにした。
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