《2》飴と約束

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「ねぇマヤ。そのほっぺ、どうしたの。」  おそらくこれは、マヤの心の傷にごく近い場所にあるだろう問いだ。  そうと分かっていて尋ねると、案の定、マヤは黙り込んだ。さらには深々と顔を俯けてしまった。 「言いたくなかったら言わなくてもいいよ。でも、僕はマヤのそのほっぺ、治してあげたい。」  小さく上向いたマヤの視線に、自分の視線を絡め合わせる。  マヤは迷っているようだった。しかし、すぐに諦めを滲ませて首を横に振り、彼女は小さく声をあげる。 「……ママに、たたかれた。まや、いい子にできなかったから」  ぽつりと呟く彼女の声を聞きながら、僕は確信していた。  マヤの傷の要因は――化膿を続ける傷口がじくじくとマヤを苛んでいるその理由は、もう眼前にある。  だが、まだ早い。マヤが震わせているのは両手だけではなかった。その顔色からは完全に血の気が引き、唇も色を失っている。髪を褒めたときの反応が嘘のように、彼女は今、深く心を痛めている。  この先を急いではいけない。  下手をすれば、余計に傷口が開いてしまう。今以上の詳細を引き出せるほどには、僕はマヤからの信頼をまだ勝ち得ていない。 「ごめんね。嫌なこと、聞いた。」 「……ううん。いい」 「マヤ。僕は、マヤの痛いのを治す人なんだ。『アカル』っていうのが僕の名前。」 「……あ、かる」 「うん、そう。これからはそうやって僕のこと、呼んでね。それから、ひとつお願いがあるんだ。」  こくりと頷くマヤをまっすぐに見つめ返し、僕は告げる。 「マヤ、僕に触っちゃ駄目だよ。マヤに触られると、僕は死んでしまうんだ。」  大きく開いたマヤの双眸に、分かりやすく驚きの感情が宿った。  その気配に気づいたからこそ、僕は畳みかけるようにして確認を入れる。 「分かった?」 「……う、ん。わかった」  ほとんど間を置かず、思慮深く頷いたマヤは、とても利発そうな少女に見えた。  こちらの人間であれ、向こう側の人間であれ、僕がこんなに小さな子供と顔を合わせること自体ほとんどなかった。  それでも分かる。マヤは賢い。あるいは、彼女のそれまでの常識とは異なるだろう異質なこの環境において、さほど難を示さずに馴染めるだけの、高い順応性を備えている。  そんなマヤの心を深々と抉った要因は、なんなのか。  先刻のやり取りで想像がつく部分もあるが、はっきりした答えまでは、僕にはまだ見えなかった。 「良かった。マヤはとってもオリコウサンだね。」 「……そうかな」 「そうだよ。ねぇ、もう少しお話ししない? マヤのこと、もっと教えてほしいんだ。」  微笑んだつもりではあったが、マヤは動揺を覗かせている。  仕方のないことだとは思う。マヤにとって僕は他人であり、しかもいくつも年上の男。父親を知らないなら、なおさら、僕のような人間と接する機会はほとんどなかったと考えるのが普通だ。  向こう側に暮らす小さな子供たちは、その多くが親に守られながら暮らす。マヤにもその概念を当てはめるなら、知らない大人――僕に、マヤが簡単に心を許すはずもない。  いつだったか、治療中の患者が喋っていた話を思い出す。  知らない大人に平然とついていく子供は、向こう側にはまずいないという。それは非常に危険なことで、どの子供も、自分の親から、あるいは周囲の大人から、「そうしてはならない」ときつく言いつけられているものなのだと。  その常識が、マヤにもまるごと当てはまるかどうかは分からない。頬の痣の原因が「ママ」、すなわち彼女の親にあるとしたら、その手の注意をマヤが正しく受けていたかはかなり疑わしくなる。だが。 「……アカル、は、まやのこと、たたかない?」 「えっ、叩かないよ。僕、マヤに触(さわ)れないし……そうでなくても、叩くなんてひどいこと、絶対にしない。」  驚きつつも伝えると、マヤは表情に安堵を浮かべてみせた。  その理由を――それをマヤが「大人の男性」である僕に見せた理由を、このとき、僕はあと一歩踏み込んで考えるべきだった。  マヤがさっそく心を開き始めてくれているのかもしれない、などと期待している場合ではなかったのに。
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