《3》赤い指

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   *  マヤが初めて言葉を発し、三日が過ぎた。  朝、いつもと同じく、僕はマヤの眠る診療室へ向かっていた。  多くの場合、マヤはその頃には目を覚ましていて、ベッドの上に小さく座っている。ひとりでベッドを出ていてもいいんだよ、と伝えても首を横に振るばかりだった。  このふた月、マヤはいつだって僕の迎えを頑なに待ち続けていて、今日もまた同じになるはずだった……だが。 「マヤ?」  開けたり閉めたりするたびに微かに軋む扉を、彼女に呼びかけながらそっと開く。  ベッドに座る金色の髪の持ち主が、ゆっくりと僕を振り返るさまが目に留まり、それきり僕は固まった。 「……え?」  そこにいたのは、見慣れた子供ではなく、大人の女性だった。  ぺたりと足を崩した座り方は、普段の朝のマヤと同じだ。また、彼女が身に着けている、明らかに身体にそぐわない大きさになってしまった濃紺の着物も。  休む前に帯を緩めていたのか、マヤと同じ色を持つその着物は、彼女の肌を隠すという役割をすでに果たせていなかった。  僕を振り返った彼女の、はだけた胸元と大腿の白さが派手に目を焼き、僕は深い困惑に突き落とされてしまう。 「あ、アカル。あの、おはよう……」  ……やはりマヤだ。声はさほど変わっていない。  本人も戸惑っていると思しき細い声を聞き、右頬に青黒く残る痣を見て、彼女が今の自分の患者だと信じざるを得なくなる。  こちら側の人間がそういう感覚に頓着しない性質だといっても、いくらなんでも目に毒だ。普通の女性患者特有の警戒心など一切覗かせない、あけすけとも呼べる無防備さが、いっそ呪わしく思えてくる。  けれど、マヤは子供だ。どういう経緯で大人の姿になっているのかは分からないが、精神は子供のままなのかもしれない。  直視に耐えず床へ視線を落とし、必死に平静を振る舞いながら、僕は無理やり声をひねり出した。 「マヤ。その格好は?」 「あ、その。大人に、なりたくて」 「うん。」 「きのうのよる、ねるまえに、そうおもった。そしたら、あさおきたら、なってた」  自覚はなさそうだ。昨日までよりわずかばかり低くなった声色からも、動揺が抜けきれていない様子が窺える。  今、マヤは「大人になりたくて」と言った。その理由が気に懸かる。  今の彼女が思念体であることを考えれば、こうした姿の変貌は決して不可能ではない。しかし過去、ここまではっきりと自身の姿を変化させた患者はいなかった。  元々実体を持っていた彼らにとって、自身の身体が思念体であるという現状が、まず現実的ではないだろう。  多くの患者は、環境には順応できても、自分の身体にまではなかなか順応できない。そのまま、やがて治療を終えて元の世へ帰っていく場合がほとんどだ。  稀に、「化粧をした状態の顔を常に保ちたい」などと願う女性はいた。例えばサユリもそうだった。とはいえサユリとて、その願望が思念体に反映されたのは、彼女がこちらに渡ってきて一年あまりが過ぎてからだ。  つまり、今回のマヤの変化に関しては異例と判断できる。  マヤは、大人になりたいという願いを直に思念体へ反映させ、具現化した。こちら側へ渡ってきてまだふた月、さらにはこちら側の世について説明してから三日しか経っていないのに。  幼さゆえの順応なのか、願う力が強すぎたのか、あるいはその両方が要因として関わっているのか――もしかしたら、深すぎる傷ゆえの願いなのでは。そう考え至った瞬間、胸が不穏な音を立てて軋んだ。  右頬の痣が残っていることが、僕の心を余計に掻き乱す。  姿を変えるほどの願いを叶えられる順応性を備えていながら、その痣は消してしまえないのか。  忘れて、しまえないのか。 「……アカル、どうしたの。これ、いけないこと?」 「っ、ううん、大丈夫。なんでもないよ。いけないことでもない。」  心配そうに眉を寄せるマヤへ、努めて明るく返す。  気づかないふりを貫くには、その軋みはあまりに大きすぎた。それでも、無理やりなかったことにして片づけるしか、僕には手段がなかった。
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