《3》赤い指

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 目元が緩やかな弧を描くさまも、唇が淡く綻ぶさまも、恥ずかしそうな「ありがとう」という声も、多分、僕はこの先永遠に忘れられなくなる。そう直感していた。  あってはならないこと。残ってはいけないもの。  普通なら焦げつくはずのない心が、危うい燻りに震えている。忘れられなくなると思った理由を明確に自覚してはならない、すべきではないと、強く思う。  それなのに。  絵を描いているマヤは、いつも真剣そのものだ。  指先を真っ赤に染め、ひたすらにカンバスへ向かい、赤い椿の絵を描き続けている。稀に他のものを描くこともあるが、マヤはことさら椿を描くことを好んだ。僕の本体である椿を。 『おうちにいるときよりも、うまくかけてるとおもうの。大人の手だからかな? それとも、どうぐ、りっぱだから?』 『どうだろうね。絵、マヤはおうちでも描いてたの?』 『……うん。おえかきしてると、じかん、あっというまにすぎるの。ママがいないことも、ちゃんとわすれられるから』  ひとりぼっちで絵を描いていたのか。  あんなに小さな身体で、寂しさを紛らわせるために、たったひとりで。  寂しそうに微笑むマヤの横顔がちりちりと瞼の裏を焼き、それはすぐさま全身へ転移を始め……心臓が軋む音は日に日に大きくなっていく。  向こう側で感じていた思いをときおり吐露してくれるようになったマヤに影響され、少しずつ、しかし確実に、僕の心は瓦解を始めていた。  それでもマヤは変わらない。僕の抱える得体の知れない葛藤に気づくこともなく、ゆっくりと過ごし続ける。  口数は相変わらず少ないが、ときおり、寂しそうに僕を見る。子供の姿の頃よりも、主に心配りにおいて大人になっている気がしてならない。身体のみならず、心もまた大人に近づいているということか。  それでいて、向こう側の女性が持つ警戒心や危機感といったものを、マヤは一切持っていない。おそらくは無意識のまま見せているあどけない表情や仕種に、ともすれば簡単に引きずり込まれそうになる。  手遅れなのかもしれなかった。マヤを見ていると、どの患者を見ていたときより、遥かに心が乱れる。  こんな僕に、果たしてマヤの傷を癒すことはできるのか。不意にそうした不安に襲われることも増えた。  僕のこの乱れの理由は、サユリの治療が終わった後、間髪入れずにこの治療が始まったからというだけではきっとない。僕には、すでにこの役割を担う資格などないのかもしれない……そんなふうに気が滅入ることさえある。  どうして、マヤだけが特別に思えてしまうんだろう。
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