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やがてマヤは目を伏せた。
いつしか大腿の横で握り締められた彼女の手は、拳を作っている。
「あの人は、……さわったよ」
蝋燭の炎が揺れる。
それに合わせてマヤの顔色が黒く沈み込んだ気がして、ぎくりとした。
「あの人?」
「うん。ママの、かれし。ママがいないとき、おうちにきて、それで……」
ばらばらの言葉を貼り合わせるようにたどたどしく話すマヤの声を聞きながら、僕は確信していた。
ようやくこの日が来た。マヤが、自分の傷について自ら打ち明けてくれる日が。
無理やり治療をしても、一方的に心へ入り込もうとしても、マヤの傷は塞がらない。だからこそ、この瞬間を待ちに待っていた。
平穏に過ごしてきたこの一年あまり、マヤの精神は、ここを訪れた当初より遥かに安定している。とはいえ、傷が塞がったかどうかという基準で考えるなら、それは亀の歩みよりも遅いとしか言えなかった。
けれど、これでやっと――それなのに。
「まやのからだ、いっぱい、……きもちわるかった」
「……。」
「やめてって、言った。そしたらたたかれて、ママがかえってきて、たすけてって、ママに言って、でも」
ぞわぞわと胸が騒ぐ。
聞かなければならない。確かにそう思っているのに、これ以上は聞きたくないと心が悲鳴をあげている。
「ママ、おこった。今まででいちばんおこった。いっぱい、たたかれて、……いたくて、こわくて、まやは」
――まやは。
沈黙が落ちる。
蝋燭の弱々しい灯りだけでは、室内のすべてを照らしきることはできていない。そんな暗く淀んだ光景から、わずかに残る色までもが消え失せていく。
……これが、マヤを苛む傷の形。
それに近いものだろうとは、だいぶ前から推測できていた。だが。
眩暈がした。
向こう側は悪意に満ち溢れている。たった数年しか生きていない子供が、無残に心を引き裂かれてしまうほどの、醜く爛れた、両の世に漂う穢れをすべて掻き集めてできているかのような、底無しの悪意。マヤの中に蓄積したそれが、見る間に僕を呑み込んでいく。
自覚をごまかし続けることを、このとき、僕は初めて手放した。
結局、いずれはこうなると心のどこかで理解していた気もする。それもずっと前から。
手にしていた短い蝋燭を、雑な所作で机に置く。
蝋燭と蝋燭がぶつかり合って転げる音が聞こえたのか、深く俯いていたマヤがびくりと身体を震わせ、僕を見上げる。
「……アカル?」
怯えたような呼び声を無視し、僕はマヤの傍へと歩み寄っていく。
近くまで歩を進めてから、夜目の利かないマヤの双眸をじっと見つめる。見ようと思えば見える。僕は――こちら側の人間は、そういう生き物だ。
窓の前で立ち竦むマヤの細い腕を、勢いに任せて引く。
もう変えられない。僕の綻びは、隠し続けてきたそれは、解放されてしまった。
「アカル。だめ、……はなして」
マヤの声は大いに上擦っていた。またその顔色は、暗がりであることを差し引いても青白い。血の気が引いているのだろう。
仕方がない。触れれば死ぬ、彼女にそう言って聞かせたのは他ならぬ僕自身だ。
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