《1》重篤

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 ――終わった。  ひとり残された診療室の中を、小さく落とした溜息がうろうろと泳いで消える。  役割を終えたときに僕を満たすものは、達成感でも安堵でもない。不安定な浮遊感、それのみだ。  サユリの治療期間は、他の患者に比べると長いほうだった。およそ二年の月日を経て、ようやく、彼女の心は健康な状態まで修復を果たした。  サユリは、向こうで「ほすてす」なる仕事をしていたという。  こちらでは聞かない言葉だが、要は男性を相手にする女性の職業らしい。働き続ける中で、意図せず同僚の恨みを買うに至ったサユリは……相当ひどい目に遭ってしまった。それが彼女の来訪の理由だった。  ここを訪れて十日あまり、サユリは口さえまともに利けない状態が続いていた。  彼女を襲った悪意の正体について、僕が知るに至ったのは、治療開始から半年が経過した頃だった。  ここ数十年、こちらを訪れる患者たちが抱えている傷は、少しずつ深くなってきている傾向にある。向こうで生きることは、きっとそれほどまでに困難を極めることなのだ。  彼らが語る自らの傷の原因は、他人からの悪意であったり、偏った愛情であったり、あるいは燃え盛る嫉妬であったりと、実にさまざまだ。豊かな感情がもたらす歪みによって深い傷を負った彼らは、それでもいずれは立ち上がる。「もう一度」と、心の底からそう願うようになる。  ……自分だったらどうか。  そんな考えが不意に脳裏を掠め、僕は苦笑交じりに首を左右へ振り、それを掻き消した。  どうかしている。ここ最近は、考えなくても良いことばかりが頭を巡る。  僕らと彼らでは、生きる理由も、そこに見出す価値も、なにもかもが根本的に異なる。生きる世界が違う、すべてはそのひと言に尽きてしまう。 『反則だよ、触っただけで寿命が縮むなんて』 『キスもできないとかマジで最悪』 『忘れないよ』  サユリは、別に特別でもなんでもなかった。彼女よりももっと破天荒な言葉を残して去っていった患者など、過去にいくらだっていた。だが、僕らのような人間が長い期間接し続けるには、向こうの人々の心はあまりに豊かすぎる。  引きずり込まれてはならない――そう明確に意識していないと、簡単に流されそうになる。例えば、彼らが抱える傷の理由に。あるいは、彼らが再び立ち上がろうとするその強さに。  彼らの心の変化は、こちらの人間にとっては毒に等しい。そして、僕らのような者はなおさらその毒に弱い。時にひどく甘美な気配を湛え、それは僕らの目に映り込んでしまうことがある。  再び溜息を落とした、そのときだった。  玄関の扉を叩く音が聞こえた気がして、ふと我に返る。慌てて玄関に向かい、扉を開くと、そこには馴染みの配達屋の姿があった。 「毎度どうもー。配達です。」 「どうも。お久しぶりです。」  食事の必要がないこの世で、よくここまで肥え太ったものだ……毎度ながら、相手の豊かな腹部に目が向いてしまう。  取り繕うように視線を上げると、朗らかな笑みを浮かべる彼と目が合う。人の好さそうな笑顔の中に、わずかに同情めいた気配を察知し、僕は思わず眉を寄せた。 「え……まさか通達じゃないですよね?」 「あっ、ええと……その。お仕事、今日で終わりでしたよね? いや本当に大変ですねェ、新しいお仕事みたいですよ。」  配達屋の顔には、今度こそはっきりと同情が滲んでいた。理由は、彼が今口にした通りの事情によるものだ。  対する僕はといえば、知らず溜息を落としていた。  このところ、治療を終えてもすぐに新しい患者の情報が届く。休暇など、情報が届いてから新たな患者が訪れるまでの数日間しかない。
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