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そもそも、向こうの人間に接すること自体が、こちらの人間にとっては危険だ。僕らのような者たちは、そうした危険と常に隣り合わせで役割を果たしているに過ぎない。
一度治療が始まってしまえば、決して短くはない期間、訪れた患者とほぼ一対一で過ごし続けることになる。その間、彼らの豊かな感情に引き込まれてはなるまいと、四六時中、細心の注意と自覚を保ち続けていなければならない。
僕らのような者たちは、他の人間に比べ、基本的な性質が向こう側の人間のそれに近い。そうでなければ、彼らが抱え込んだ複雑な心の内や、傷を深めた原因に対し、うまく理解を及ばせられなくなるからだ。
役割を果たすために、向こうの人々に近い心を持っている。同時に、彼らの豊かな感情と心の変化に、流されやすい環境に置かれている。
僕らの役割は、そうした矛盾と危険を常に抱えながら執り行わなければならないものだ。加えて、そのことにさえ必要以上に疑問を抱いてはならない。己の存在について疑問を抱くことは、それそのものが僕らの存在を脅かすことに直結するからだ。
今日落としたどれよりも重い溜息が、薄く開いた口から零れ落ちる。
瞬間、配達屋は手にした書類を強引に僕へ握らせ、逃げるように去っていった。なにを伝える間もなく、丸々とした彼の後ろ姿は見る間に小さくなっていく。
ふう、と息をつき、僕は改めて手元の封筒へ視線を向けた。なんの変哲もない角型の茶封筒だが、なんの変哲もないとは到底思えないくらいに分厚く膨らんでいる。その表面、右上の部分に記載されているのは、「伍」の文字だ。
伍。これも、まただ。
堪らず、僕は空いた指で目頭を押さえた。ここしばらく、重度の患者ばかり任されている。
訪れる者の傷の深さを示す際、その指標として「壱」から「伍」までの漢数字が用いられる。伍は、それが最重度の患者であることを意味している。
サユリは「肆(し)」だった。その彼女でも、あそこまでの治療を必要としたのだ。伍ともなれば、一体どれほどの時間と労力がかかるのか……想像するだけで眩暈がしてくる。
こうした異変が少しずつ深まり始めたきっかけは、二年前にある。同じ役割を担う者のひとりが禁を犯し、この世を去った――それが発端だ。
数十年前であれば「伍」と認定されていただろうサユリが「肆」の患者としてこの地を訪れたのも、ちょうどその頃だった。
役割の中核を担っていたその男は、すでにこの世にはいない。この世の異端者は、自らを異端と罵らない世へ羽ばたいていった後だ。そして残された僕らは、ますます身動きを取りにくくなる中で、これまで以上の重責に喘いでいる。
歪んだ口の端から、何度目になるか数える気にもなれない溜息が落ちた。
新たな憂鬱を抱えたきりで室内へ戻り、僕は封筒の中から書類を引っ張り出し……だが。
「……え?」
思わず声が零れた。
真っ先に目に留まったのは写真だ。そこに写っていたのは、幼い子供がひとり。
こちら側へ、子供は滅多に現れない。特にここまで小さな子供は、僕が役割を担い始めて二百五十年あまり、一度も診たことがなかった。
再び写真に目を落とす。髪色が特に目を惹く。サユリのように、元の髪色から別の色へ染めている患者は、近年では珍しくなくなってきている。だが、こんな幼い子供でも染髪するものだろうか。写真の子供――女児の髪は、眩しいほどの淡い金色だ。
僕自身、こちら側においてはやや異質な色素を持って生まれ落ちた人間ではある。しかし、これが生まれ持ったものだというなら、この子供のそれは僕の比ではない。
よく見ると、伏せがちな瞳の色も、過去の患者たちのそれとは異なっていた。片方が黒、もう片方は微かに青みがかった色をして見える。
なんだ、これ。
つい首を傾げてしまう。単なる光の具合なのか、あるいは写し方のせいか。
年齢は五、六歳といったところか。肩の上で揺れる、柔らかそうな金の巻毛――それが緩くかかる頬には、外傷と思しき大きな痣が浮かんでいる。
逸らされた視線も、写真であるにもかかわらず伝わってくる憂いを孕んだ表情も、確かに、この子供が心に傷を抱えていることの表れだ。
……こんなに小さな子供が?
ぞわりと背筋が粟立った。同封されていた複数枚の写真を揃えて机の端に置き、次は本人の詳細について記された書類をと指を動かした、そのときだった。
ゴン、と、なにかが扉にぶつかるような鈍い音が響いた。
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