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はっと玄関を振り返る。
椅子から立ち上がると同時、扉越しに、なにかがドサッと地面に落ちる音がした。
喉が鳴る。
走った緊張をどうにもできないまま、玄関へ足を進めていく。取っ手へ指を伸ばし、慎重にそれを押す。
「……あ……。」
薄く開いた扉の先に、丸いなにかが見えた。
それが人――小さな子供の背だと気づき、次いでその頭部を彩る鮮やかな金色が目に飛び込んでくる。
「……、ぅ、う……」
背を丸めた子供の呻きは細く、すぐには身体が動かない。
……まさか、こんなに早く訪れるとは。混乱に呑まれた頭に思い浮かんだのはそれのみだ。
写真で見たよりも遥かに鮮やかな金の髪が、小刻みに震える背に合わせて揺れる。怯えた瞳が髪の間から覗き見え、僕はようやく確信に至った。
深い海の底――僕自身、それを実際に見たことはないが――を彷彿とさせる、昏くも鮮やかな瞳。それも片側だけだ。
「ぁ、だ、れ」
「医者だよ。立てるかな?」
「……ぁ」
弱々しい呻きを最後に、子供はなにも言わなくなってしまう。そのときになってから、果たしてこの子は言葉を理解できるのかという疑問にぶつかった。僕が告げた言葉の意味を、この特異な色素を持った子供は、どこまで正しく拾えるのか。
だいたいが、これほどに幼い子供なのだ。自分が今どこにいるのか、なにが起きたのか、大人でも理解に時間がかかる。この子供にそれを咀嚼できているとは思えなかった。
診療室に連れていきたいが、自力で立ち上がることもできない子供を前に、僕はすっかり途方に暮れていた。
見るからに憔悴している。この状態では、治療云々といった問題以前に考えるべきことがあるように思う。
抱きかかえて運ぼうかとも思ったが、直に触れることはさすがにためらわれてしまう。
たった数刻前まで、向こうの別の人間と――サユリと接触していた身だ。保つべき精神状態が、本来の状態にまだ戻りきれていない自覚はあった。サユリとの最後のやり取りを経て、向こうの波長に捕らわれたきりの僕の心は、今この子供に直接触れてなにごともなくいられるとは思えない程度には波立っている。
ここまで間を置くことなく次の治療を始めなければならない状況は、過去になかった。とはいえ放置するわけにもいかない。
この子供は「伍」の患者だ。悪戯に傷を深めさせている場合ではなかった。
そもそも、治療を始めるまでに相当の時間をかけねばならない可能性が高い。その間、いかに今の傷を同じ大きさに留めておけるかが鍵になる。放置などして、無駄に傷を深めさせるわけにはいかなかった。
大丈夫だ。
少し触れただけでどうにかなるとも思えない。
僕は、あいつとは違う。
ちり、と胸の奥が焼ける感覚があったが、無視した。
骨と皮のみでできあがっているような細い腕へ、僕はゆっくりと手を伸ばしていく。
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