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さらにひと月が経った。マヤがこの地を訪れてから、ふた月が経過した計算になる。
いつも通りの朝だった。マヤに声をかけ、マヤからは沈黙を受け取る。それが日常となっていた僕とマヤとのやり取りに、その日、ついに変化が訪れた。
マヤが喋ったのだ。
「……ない……」
「……ん?」
気を抜いていたなら、気のせいかとやり過ごしてしまうほどに小さな声だった。だが、マヤからの反応をこの上なく待ち望んでいた僕がそれを聞き逃すはずもない。
食らいついてはならない。それでいて、糸口を見失うことのないように。細心の注意を払いながら、僕はマヤの言葉をそっと拾う。
「どうしたの?」
「……、たべて、ない……」
「ああ、食事のこと? そうだね、ずっと食べてないね。でもここでは食べなくても大丈夫なんだよ。お腹、空いてないでしょう?」
子供心にも、それがどれほど不思議なことか訝しく思ったらしい。微かに眉を寄せたマヤはまた黙り込んでしまった。
その間、なにごともなかったかのようにカーテンを開き、窓も半分ほど開ける。差し込んできた日差しにふと目を細めたマヤは、自分の手元へ視線を戻したきり、ただじっとしている。
三ヶ所のカーテンと窓をすべて開け終えたそのとき、細い声が再び僕の耳を掠めた。
「……あめ」
「ん?」
「……、あめ……たべたい。いちご、の」
マヤが口にした言葉は、それまでの僕らの会話を完全に無視したものだった。しかし、マヤは腹が減っているからそう告げたわけではきっとない。
複雑に入り組んだ心の内は、たとえ子供であっても変わらないらしい。それは、こちらの人間には理解を及ばせられない種類の思考だ。だが。
なにはともあれ、ようやく引っ張り出せたマヤの願望だ。叶えてやらない手はない。
どのみち、マヤの治療を行うには、彼女の信頼を得ないことには始まらない。これは願ったり叶ったり……絶好の機会でしかなかった。
「そっかあ、イチゴのアメか。」
「……」
「よし。ええと、作ってみるから、ちょっと待ってて。」
怪訝そうに僕へ視線を投げて寄越すマヤの表情は、いまだ硬く強張っている。ふた月前とほぼ同じで、そこに変化は見られない。
だが、僕が告げた言葉をゆっくりと咀嚼しているらしかった。黙り込んだきりでも、これまでは一切見せなかった関心の視線を、今、マヤは僕に向けている。
役割を担って二百五十年あまり、過去に診てきた患者からは、実にさまざまな話題を振られ続けてきた。当然ながら、そこには食べ物の話題も含まれる。
苺、飴――そのどちらも、知識として僕の中にきちんとある。特に苺は植物だ、それを本体として生を繋いでいる人間を知ってもいる。多分、難度はそれほど高くない。
「……こう、かな? それともこんな感じ……いや、もっと……こう……。」
ぶつぶつ呟きながら手を握ったり開いたりし始めた僕を、マヤはやはり怪訝そうに見つめている。訝しげな視線が突き刺さるものの、集中を途切れさせたくない僕はふっと目配せして微笑むに留まった。
……時間稼ぎをしているわけでも、気を惹こうとしているわけでもない。
難度は高くないなどと見栄を張ってはみたが、それなりには難しい。なにしろ「イチゴのアメ」なる食べ物の実物を、僕は目にしたことがないのだから。
とはいっても、ここは思念体のみで構成された世だ。作ろうと思えば作り出せてしまう。無論、誰にでもできるわけではない。こうして向こうにあるものを利用し、患者の信頼を得ることもまた、僕らのような者の力量のひとつということだ。
「……うん、できた。と思う。」
「……?」
「はい、どうぞ。」
手を差し出したと同時に、マヤの両目が大きく見開かれる。
僕の手の中には、小さな紙が蝶々状に結ばれた、丸い物体がひとつ。おそるおそる手を伸ばしてきたマヤは、途中から奪うようにそれを掴み取り、そうっと包み紙を開いた。
中から出てきたものを一瞥し、とうとう、マヤは驚きを隠しきれなくなったらしい。
「……あ」
「イチゴ味イチゴ味って、ちゃんと思いながら食べてね。ええと、もしかしてマヤが思ってたのと違う?」
首を横に振った後、マヤはその小さな口に飴を放り込んだ。
その両目が、見る間にうるうると濡れていく。零れ落ちる涙が、彼女の白い頬を伝ってはシーツへ落ち、染みを作る。
涙さえも、この世においては「ないもの」と思えばなくなってしまう……だが。
しゃくりあげては涙を落とし続けるマヤを、僕は静かに見つめ続けていた。
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