《2》飴と約束

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 涙が止まった頃、初めて、マヤが僕に自分の名を名乗った。  その後、瞳にわずかばかり警戒の色を宿しつつ、彼女は僕に問いかけてくる。 「どうしてまやのなまえ、しってるの」 「僕がお医者さんだからだよ。マヤの痛いの、治す人なんだ。」 「……まや、びょうきじゃない……」 「けど、痛いでしょう? ほっぺとか。」  言い方が重くなりすぎないよう気を揉みながら告げると、それきり、マヤは黙り込んでしまった。  ここを訪れてふた月が経過してなお、マヤの頬には、明らかに外傷と思われる大きな痣が浮かんだままだ。向こう側で同じ時間を過ごしたとして、十分消えていい頃合いだと思う。だというのに、願えばすぐに消えるこの世において、マヤの痣は少しも消えない。小さくもなっていない。  それは、マヤにとってその痣が、あるいは痣を作ったときのできごとが、心の底に居座り続けている証拠だ。 「……もう一個アメ食べる?」 「……、いらない……」 「そっかあ。」  顔を歪めたマヤの、微かに震える両手が目に留まる。  小さなそれに無性に触れたくなった僕は、躍起になってその衝動を抑え込んだ。  触れては、ならない。  背筋を強張らせ、幾度となく心の中でそう呟き続ける。  本格的な治療を開始しているわけではないが、駄目だ。  触れれば削がれる。心を動かされていてもいなくても、やはり、僕らのような者にとって触れるという行為はそれ自体が危険だ。理屈ではなく、そういうもの……マヤの震えが寂しさに影響されてのものなのではと思ってしまった僕が、今の心理状態でマヤに触れるのは危険だった。  意図的に話題を変えながら、なんとか、僕は再びマヤに視線を向ける。 「ねぇ、マヤ。マヤがここに来てから、僕、ずっと思ってたんだ。マヤの髪の色って綺麗だね。金色で、きらきらしてる。」  目を見て告げると、途端に小さな肩が派手に上下した。解れかけてきていた表情もまた、再び硬く強張ってしまう。  ……触れてはならない話題だったらしい。降って湧いた焦燥に駆られながらも必死に取り繕い、僕は言葉を続ける。 「ああ、その、きらきら光ってて……お星様みたいだなって、思ったんだけど。」  呆然と僕を見つめるマヤの頬へ、ほのかに色が差す。  淡く頬を染めるマヤは、精巧に創られた人形のようでいて、ひどく愛らしくもある。その顔を見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。  良かった。禁忌というほどの話題ではなかったみたいだ。 「……うん……あの、はじめて、ほめられて、びっくりして……」 「そうなの? そんなにキレイなのにねぇ。」 「……まや、はーふ、だから」 「はーふ?」  馴染みのない言葉に思わず小首を傾げた僕は、マヤの言う「はーふ」が「ハーフ」を示していると、一拍置いてから思い至る。 「うん。パパが、にほんじんじゃ、ないんだって」 「……そっか。」  数十年ほど前まではそんな言葉を聞くことも滅多になかったが、ここ最近では、それを患者から耳にする機会はわずかながらも増えていた。  向こう側の人々が、さらに別の人種との間に成した子のことをそう呼ぶと自分に教えてくれたのは、一体誰だったか――確か、三十年以上前にここを訪れた患者だった。その男性はハーフである女性に思いを寄せ、結果、心に甚大な傷を負ってこちらに現れた。詳細は……まぁ、今そこまで触れる必要はないだろう。  とにかく、話には聞いて知っていた。とはいえ、実際にそのような患者がここを訪れたのは、僕が診てきた中ではマヤが初めてだ。 「パパ、しらない。みたことない、だから……どんなひとか、しらない」 「……そう。」  向こう側の人間にとって、「親を知らない」という事態は、どういう状況を経て起こり得ることなのか。  父親と母親、どちらかが欠けていては、向こう側の人間は世に生まれ出ることができないはずだ。だというのに、マヤは父親を知らないと言う。マヤが産まれた後、間もなく他界してしまったのか、それとも。 『パパ』  そう言いながら、マヤは自分の頬の痣へ指を伸ばした。そのときの表情が、またも、なんの感情も抱いていない無機質なものに戻っているように見え、ぞわりと背筋が粟立つ。  不意に空恐ろしくなった僕は、意を決してある問いを口に乗せた。
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