1人が本棚に入れています
本棚に追加
私は泳げない。
海沿いの街で生まれたのに、海で泳ぐことが出来ない。そもそも海に入ること自体が苦手だ。まず波打ち際、あの足の裏から砂を持っていかれる感じがたまらなく怖い。25Mとか50Mとか区切られていない、果てしのなさも怖い。
高校生の夏。ひと気の消えた夕暮れ。私は一人、海にいた。波打ち際で、ひとしきりためらっていた。
果てしのない海、その果てしなさが怖いうちは、この町を飛び出すことなんてできない。足元が崩れることを恐れず、この境界線を超えなくちゃならない。進路で家族と揉めていた私は、なぜだかそんな独自の迷信に取り憑かれていた。
波が、足首を濡らす。ふくらはぎ、膝、腰…怖さをこらえて私は進む。波に体が遊ばれる。このまま進んだら足がつかなくなって自然に浮かぶんじゃないかと思えた。
(あれ?)
私のつま先が、あるはずの砂を捕らえられない。空振りしてバランスを崩した私は、一気に沈む。
(怖い!助けて!怖い!)
必死で手足をばたつかせながらもがく。塩辛い水が、口からも鼻からも入ってくる。
(苦しい!怖い!助けて!)
掴むものなど何もないのに必死で手を伸ばす。その手をいるはずのない誰かが掴んだ。その誰かは必死にすがる私を引き寄せながら、状況に全く合わない静かな声で
「さあ、おいで。」
といった。
私は海水でぼやけた目で確かめるでもなく誰なのか理解した。
「力をぬいて。」
催眠術にでもかかるように、体の力が抜ける。
(あ、私浮いてる。)
自分の足がふわっと浮く初めての感覚が、今この瞬間の現実感を奪う。目の前の彼が微笑んでいる。
「もう立てるね。」
私はうなずいた。
私の足が砂を捕らえたのを確認すると、彼は急に目をそらした。そして私の手首を掴んで、砂浜へ向かって歩きだした。
最初のコメントを投稿しよう!