彼の岸

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私は今、海を見ている。あの夏の海とは別の見知らぬ海。今朝降りなかった電車で、たまたまたどり着いた海。夕日はとうに沈んだ。夜風が波の匂いを運んでくる。太陽と入れ替わりに月が浮かび上がっている。 《吸い込まれそう。》 そう添えて彼に海と月の画像を送る。 こうして彼にメッセージをするのが、もうクセになっている。 はずれたランチ、あたりの映画、なにかに見える雲、幸も不幸も起こらない毎日… ふるさとを脱出した日、あの夜もこんな月が浮かんでいた。 進学であって、家出じゃなかったのだけれど、こじれにこじれていた親の姿はなかった。夜行バスのターミナルには彼だけがいた。 どちらも一言も話さないまま、私は滑り込んできたバスのステップを一段上がる。振り返って、いつか…と言いかけて言葉を飲んだ。いつか、あなたもここを抜け出して…とはどうしても言えなかった。 あの海での彼の言葉、その意味をようやく理解した。私は彼を置き去りにするんだ。 この優しい人が、私のように親を捨てることなんて出来ないだろう。彼によく似た優しい祖母を悲しませることはできないだろう。 彼はいつものように微笑んでいる。 私はこの幼なじみが好きだった。恋とは違う深さで愛とも違う形で、彼のことが好きだった。 たぶん彼も似た想いを私に抱いていてくれた。 そんな彼を私は置き去りにするんだ。バスが私を彼から遠ざける。「1人にしないで!」というあの日の彼の心の叫びが、時間を越えて私に響く。
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