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翌日、日曜だという事もあり…俺はギリギリ迷惑にならなそうな時間帯で午前十時には102号室の前に立っていた。子どもがいる家庭なら、休みの日でも恐らく早い時間から起き出して忙しくしているとは思ったが、ほとんど面識が無い人間が家を訪ねるというのは非常にデリケートな緊張感を伴う。 落とし物を届けるだけなのだから、特に手土産なんかは要らないよな? 俺は寝不足で回らない頭でそんな事を考え、やがて意を決してチャイムに指を伸ばした。 ◇◇◇ 佳菜子は所謂在宅ワークというやつなので、自分の仕事部屋に簡易ベッドを備えている。最近は専らそこで就寝しているので、夜の営みがレスになっているのも当然と言えば当然の事であった。 浴室での出来事の後、俺は一人ベッドに入って眠れない夜を過ごしていた。 眠れる訳が無かった。ずっと子どもの話し声や笑い声がどこからか聞こえてくるのだ。それもボソボソした音量からいきなり大声に変わったりして、一向に落ち着かない。佳菜子には、やはり聞こえていないのだろうか。彼女が部屋から起き出してくる様子はなかった。 流石の俺も、これが隣から聞こえる人の肉声とは思えなかった。 間違いなく…リビングにある【落とし物】の所為だろう。数時間前、怖くなって思わずベランダの窓から外へと投げ捨ててしまったが、振り返ると元の位置に収まっていた落とし物に俺は小さく悲鳴を漏らした。一晩の辛抱だ。明日になれば持ち主の子どもなり、その親に押し付けてでも渡す。だから今夜だけなんだ。俺はそう自分に言い聞かせると、必死で布団を頭まで被った。そんな物理的な抵抗は無意味だと嘲笑うように、子どもの声はずっと何かを話していた。喋っているのは確かなのに、何を言っているのか分からない。俺は手元のスマホを眺めながら、たかだか十分程度の時間を永遠のように感じて震えながら夜を明かした。 ◇◇◇ チャイムを鳴らして暫く経つが、一向に人が出てくる事は無かった。二十分程粘ったが、人が動く気配は感じない。まさか留守なのか、冗談じゃないと焦ったが、どうしようも無かった。けれどこの落とし物を持って自室へ戻る事は避けたいと迷っていると、庭の掃除をしていた大家が愛想良く「あら、どうかしたの?」と声を掛けて来る。俺は拾った場所は伏せたまま、大家に落とし物を102号室に届けに来た旨を伝えた。大家は黙って聞いていたが、やがて困惑した顔で何かを言い迷い、「その落とし物…ちょっと見せてもらっていいかしら?」と呟く。俺が了承してパスケースを渡そうとすると、昨日は気付かなかった紐…恐らくはスニーカーの靴紐らしき物がキーホルダーに絡みつくようにくっついていた。昨日、こんな目立つ物に気付かなかったとは思えない。訳が分からず、俺は薄気味悪くなり大家に押し付けるように渡した。 「…住所の紙に、しまだゆうきって書いてあるわね…」 「ええ…102の方は島田さんでは?」 「102に住んでいるのは清水さんって男性よ。この島田さんって…五年前に住んでた母子(おやこ)の事ね…」 パスケースを悲し気な目で見つめた大家は、ぽつりぽつりと絞るように声を出した。何かを悼んでいる様子に、嫌な予感がした。 「このゆうき君って、学校でいじめられていたみたいでね…。ある日、電車に轢かれて死んでしまったの。もう一人一緒に轢かれて亡くなっていて、それがいじめていた子だったみたいだから…どういった経緯でそうなったのか当時いまいち分からなかったのよね。飛び込む瞬間を見た人も居なかったし…。そのいじめていた子の親が、ゆうき君のお母さんに辛く当たってね。ゆうき君が自殺するのに巻き込んだとか、ゆうき君のせいで自分の息子が殺されたとか…事実も分からないのに決めつけて滅茶苦茶言ってね。ゆうき君のお母さん、病んでしまってすぐに実家に戻って行ったわ…。まさかこんなに時間が経って、ゆうき君の物が見つかるなんてね…見つけて欲しかったのかしら…」 俺は何と言っていいか分からず、そしてこれを返すべきゆうき君もゆうき君の母親もすでに102号室には住んでいない事実に愕然と肩を落とした。 「私も島田さんの実家までは分からないから…これを届けるのは難しいわね…」 「そうですか…、お話聞かせてもらって有難う御座います…」 これは俺の手から離れてくれないのだろうか。ゆうき君は成仏するまで、ずっとそばにいるつもりなのだろうか。何をしたら成仏してくれるのだろう。そんな事を考えていると、大家はまたぽつりと言った。 「あの当時、子ども達の間で妙なうわさ話があったみたいでね…。切符とか、電子パスとか電車の乗車に関係する物を持って電車に飛び込むと、あの世行きの電車が天国に運んでくれて幸せになれるって…そんな訳、ないのにね…」 そんなうわさ話に縋って、ゆうき君は電車に飛び込んだのだろうか。いじめっ子に一矢を報いて道連れにして? 俺は手の中に戻った落とし物を見つめると、やりきれない気持ちのまま部屋へと戻った。…佳菜子に顛末を説明する事を考えると、気が滅入る思いであった。
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