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 「全くの静謐をたたえたすべてを包み込むような森の中、一匹の烏が弱々しい足取りをつくっているのが目に止まったんだ。私はどうして烏がそんなに脆い命を辿っているのか、少しも理解が出来なかったんだよ。綱渡りってあるだろ。細いロープの上をバランスを取りながら渡っていくやつだ。あの烏もそんな感じだった。ただ違うのは、まるで今にもロープから落ちそうで落ちそうでたまらなかったってことだよ。すぐそこにもう奈落があって、もうそこに落ちるしか未来はないことがはっきりして恐怖で頭が停止するんだ。そうしないと死ぬより先に心が壊れるもんで、命よりも先に心を殺した方が賢明なのさ。それでも烏は歩みを止めなかったし、ふらつきながらも後退することなく真っ直ぐに何かを目指していたんだ。私はその烏に興味が湧いたから、後に付いていった。とてもとても鈍い歩みだった。前進していることを見出だせない歩みだった。それでも私は辛抱強く彼を見守った。見守った、なんて綺麗な感情ではないな。下馬評じみた屑の好奇心だが。彼は私なんて種々の一粒程度も意識していなかっただろうがね。単に余裕がなくてそうだったんじゃなくて、どのような状態であろうと彼はなにも気にしないだろうって。 そうして彼が辿り着いた場所は、散り逝く桜の下だった。なぜだか分からないが、私はその桜をとても美しいものだと思った。それは恍惚だった。それは多幸だった。それは──言語では表しがたいどこかだった。私は叫び声をあげて桜の雨に身を与えて確かな存在を踏み締めた。横にはあの烏がいた。烏は既に仰向けに体を向けて微かな毛と眼の痙攣を除いては停止していた。私はそこにいるのが礼を扮しているような気がして、烏から少し離れた。しばらく私はそこで佇んだ。 しばらくして、その烏のもとに二羽の同族が舞い降りた。私は最初、彼らは彼の仲間であると思ったし、いまでもその印象は間違っていない、と思うよ。というのは、彼らは仰向けに倒れた彼の腹を鋭利なくちばしで裂いたのだから。赤い臓物が淡々と彼らの口に運ばれていくその様を私はじっと凝視していた。すると、ふとこの死した烏は私なのではないかという突飛な考えに捕らわれた。私は先ほどまでの彼の歩みを思いだし、あの桜の輝きを再び味わった。……そうだろう?そこの窓を見ろよ、あの烏は、あの烏はそこに視えるじゃないか! あの桜の輝きも何もかもがそこにきちと写りこんでいるだろう、それが、それが、真実、で、なくて、なにになるのか。私には分からないが、あそこの窓を今開けるぞ?構わないだろう?…なにを唖然としてるんだ?大丈夫だよ、一切は大丈夫なんだからな!」
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