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夜のお誘い
ずっと夜の中に住んでいても、一応時間は理解している。洗濯物のことを除いても。
僕はその日、締め切りが近くて夜になっても仕事をしていた。夜半も過ぎて、そろそろ休憩したほうが良いと思いつつも、もう少しだからと続けてしまっていた。
疲れて眠くなってきたけれど、ペンを動かし続けた。これが終わればしばらく暇ができるのだから、終わらせてしまいたい。
こんこん。
カーテンのほうから音がして、僕は、はっとした。ペンを走らせつつも、いつの間にかぼうっとしていたようだ。
いけない、寝落ちるところだった。
思ったものの、すぐに違和感に気付く。
今は夕方ではないはずだ。
なのに窓のほうから音がした……。
一体、どうして。
僕は疑問に思ったものの、夕方に聞く音、そのままだったから泥棒かなにかではないだろう。
よってそろっと窓へ寄って、カーテンを開けた。
そこには夜があった。
しんと静かな、本物の夜が。
藍色に、ところどころ星がちりばめられている、澄んだ夜。
夜ってこんなに綺麗だったか。
僕はぼんやり思った。
そして下に視線を向ければ。
予想通り、そこには夜がちょこんと座っていた。
いや、例の黒猫。それがいたのである。
餌をもらいにきたのでなければ、あるいはこれまで単に訪ねてきていたのとも違う、と直感した。そうでなければこんな妙な時間にやってきたりしないだろう。
それを肯定するように、猫はにゃぁ、と小さく鳴いた。そしてひょいっとベランダの手すりに飛び上がったのである。僕をくるっと振り返った。
まるで誘うようであった。猫や犬などの動物が人間を誘導するとき、ドラマなんかで見るそのときのような仕草。
けれどそうされても困ってしまう。僕が同じようにできるものか。
僕が戸惑っているのを感じたのか、猫はしばらく僕を見つめていたけれど、やがて跳び下りてしまった。
タッ、と音がここまで聞こえてきそうなほど軽快な下り方であった。
しかし逃げてしまう、行ってしまうのではなかった。
そこに下りてから、僕を見上げてきたのだから。もう一度、誘うように。
口も動いた。きっと鳴いたのだろう。
……仕方ない。
僕は心を決めた。ベランダからは跳び下りるなんて無理だ。
だからスマホと財布だけを掴んでポケットに突っ込み、きちんと玄関から家を出たのである。
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