前編

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前編

 九月のある日、いつもと違う仕立屋がやってきた。隆人からの指示だというので、遥は内心の疑問を隠して、大人しく採寸された。ただ、スーツの時は何種類かの生地が持参され、その中から選ぶのだが、今回はそれがなかった。隆人が選んだのだろうと思い、深くは考えなかった。  仮縫いもなく、完成品が十月に入って届けられた。  箱を開け、遥は「はあ?」と声を上げた。  中にあったのは、真っ赤な布でできた何か。 「何の冗談だ、これは?」  仕立屋に訊ねる。 「ハロウィンの御衣装として承りました。テーマは赤ずきんちゃんでございます」  大真面目な返事に、開いた口がふさがらない。 「これが注文の品なんだな?」 「さようでございます」  遥は湊に低い声で命じた。 「隆人に連絡をつけろ」  会議が終わった隆人と電話が繋がった。 「おい、何だ、あの赤ずきんの服は?」 『ハロウィンパーティーの衣装だが?』 「聞いてないぞ」 『今言った』  隆人が面白くなさそうな声で続ける。 『特に懇意にしている若手経営者のグループで、パーティーの企画が持ちあがった。童話を選んでくじ引きしたら、俺は赤ずきんを引いた。だからお前が赤ずきんだ』  遥は怒鳴る。 「何がどう『だから』なんだよ。引いた隆人がやればいいだろう?」 『俺は狼だ』  遥の頭の中に、隆人の狼姿が浮かんだ。それはそれで笑える。 『ただのお遊びだ。お前は可愛く笑って、口をきかずに大人しくしておけばいい』  電話を切られた。  その間に納品を済ませた仕立屋が帰り、湊が箱から衣装を取り出して、ハンガーに掛けていた。  白いブラウス、一面に刺繍の施されたべスト、マントにスカート、そして赤いずきん。 「こんなの着て、人前に出るのかよ」  頭を抱えた。  遥は衣装の写真を撮ると、愚痴を遠くサンクトペテルブルクへ送った。  おそらくラウルは爆笑したであろう。 『これは絶対遥に似合う! 可愛い赤ずきんになるぞ。写真を必ず送ってくれよな』  面白がっている友に、深いため息をついた。  十月半ばのパーティー当日、遥はマンションで着がえさせられた。  下着までレースのごてごてついたものを穿く、白のニーハイソックスに赤い靴を履くと知り、三十分はごねた。  世話係三人に時間がないと押し切られ、衣装を着た。腿がスースーして心許ない。情けない思いをしている遥が気がつくと、美容師の加賀谷克己が来ていた。戦々恐々で鏡の前に座らされると、三つ編みのウィッグを被らされ、丁寧に化粧を施された。  克己の手が離れた。 「できました」  真っ赤な頭巾に、肩を覆う真っ赤なケープ。その下に白地にカラフルな草花が刺繍されたベスト。ふんわりと持ち上がっている真っ赤なスカート。ニーハイソックスに赤のベルトシューズ。  鏡に映ったのは、二十五の男ではなかった。薔薇色の頬の可愛らしい少女は、どこからどう見ても、赤ずきんちゃんだった。  くそっと思った。隆人の仕事関係でなければ絶対に拒否するのに。  仕上げに籐のバスケットを持たされた。 「写真を撮りますか?」  遥はしぶしぶスマートフォンを、護衛として付いてくる猟師姿の俊介に渡した。そして精一杯の作り笑いを浮かべた写真を、ラウルに送った。  会場となるホテルの小広間の周辺は、カオスだった。  男の白雪姫に女性の七人の小人、既に靴擦れを起こして椅子に座り込んでいるシンデレラと苦笑する王子、少年と少女に扮しているのはヘンゼルとグレーテルか。人魚姫は平らな胸に貝殻のブラジャーだ。他に日本昔話組もいる。  これが、急成長している会社のお偉いさんかと思うと、頭が痛くなってくる。  そしてようやく狼の登場だ。全身灰色のフェイクファーの、耳付き尻尾付きの着ぐるみに赤いベストを着て、鼻と口の部分に作り物をつけた隆人に、遥は噴いた。 「よくそんな格好する気になったな」 「仕方なかろう」  隆人が渋い顔をしながら遥をエスコートして広間の中へ入った。  入った途端、桃太郎が遥たちに声を掛けてきた。 「赤ずきんちゃん、すごくお似合いです。写真撮ってもいいですか?」  狼とペアならと隆人が認めたら、次から次へと人が現れ、恥ずかしい姿を記録された。司会が「撮影は一旦中断してくださーい」と叫ぶ始末である。  肩にツバメのぬいぐるみを載せた幸福の王子の挨拶と、浦島太郎の乾杯があって、やっとパーティーが始まった。遥と隆人にはお祖母さん役の喜之が、酒や料理を運んでくれた。  本当に気心が知れたメンバーなのだろう。隆人は遥を傍らから離さず、仕事の話より、趣味や家族の話などをしている。  隆人の趣味に一つに陶芸があると知ったのは、加賀谷精機と加賀谷家の騒動が一段落してからだった。別邸に道具一式があって、電気の窯まである凝りようだ。隆人の師匠が来る時は、遥も別邸で土いじり程度だが湯飲みなどを作っている。隆人に促され、遥も作った湯飲みや絵付けをした茶碗や皿の写真を披露するはめになった。  再び写真を撮りあったり、ビンゴをやったりして、挙げ句はダンスだ。もっとも、遥へのダンスの誘いはすべて隆人が断った。 「私だけの赤ずきんなのでね」  だいぶ会場に酔いがまわった頃「次がラストダンスです」とアナウンスが入った。 「踊るぞ」  隆人に手を取られて、遥は慌てた。 「俺、踊れないぞ」 「適当に揺れてろ」  曲はムーディだった。皆体を密着させて音楽に合わせて、抱きあっている。  遥の腰に手が回され、引きよせられた。背にも手が添えられ、離れられない。隆人のもこもこした狼の衣裳は柔らかくて気持ちがいい。触れあう頬が熱い。 「愛してる」  不意に囁かれて、背筋がぞくりとした。体が反応しそうになる。 「こんなところで」と咎めた。 「お前は?」  聞き出そうとする隆人に、遥は素早くキスをした。隆人が笑った。 「お前の方が大胆だ」  曲がゆったりと終わりを迎え、拍手がわきあがった。遥は熱い頬を隠すように、隆人の隣に立った。
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