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 僕のデスクは溜息に埋れようとしていた。今日だけで何度漏らしただろう。編集者になっておよそ10年、ここまで厄介な仕事は初めての経験だった。 「そもそも無茶な企画なんだよ。素人を組み込もうだなんてさ」  昨今の出版不況は当然の様にうちの商品にも直撃した。そこそこに有名で権威も備えた小説雑誌なのだが、売れ行きはずっと右肩下がり。どうにかして話題を作り、あわよくばV字回復をと目論んだ末に生まれたのが、この企画だ。 ――アマチュア作家をスカウトし、紙面に掲載する。  無謀だという懸念は一蹴され、企画はアッサリと通過してしまった。そして担当は僕。我が運命を呪いたいし、誰かの呪いなんじゃないかとすら疑っている。  しかも抜擢された素人というのが、また厳しい。期待値を大きく下回るレベルはどうしようもなく、最低限のハードルすら超えてくれない。その結果がリテイクの嵐であり、ここ数日の音信不通であった。  メールの返事ナシ。電話も虚しくコール音を鳴らすだけ。これはもう、別の判断を迫られていると言えた。 「締切は、今日の20時までだったよな……」  時計は間もなく15時を知らせようとしていた。短針を眺めつつ、いくつかのパターンを想定してから席を起った。 「編集長、今よろしいですか?」 「おう辺見君。どうしたんだい」  よし、機嫌は悪くない。話を切り出すとしたら今しか無いだろう。 「お話は、例の新企画についてでして」 「あぁ、例の新人君だよね。彼は良いよ、面白いよ。ダイヤモンドの原石だからさ、大事にしていこうね」  眼が腐ってんのかボケ、生皮ひん剥くぞ。そんな罵声をノドの奥に押し込み、パターン2の案を出してみた。 「随分とお気に入りのようですが、締切に間に合わない可能性が高いです」 「ふぅん、あと5時間か」 「最悪の場合はストック原稿を掲載したいです。その許可をいただけますか」 「その事ね。構わないよ」 「ありがとうございます」  すぐに自席へ戻ろうとしたその時、引き止めるような言葉が投げつけられた。 「でもね、ちゃんと20時までは待ってあげて。約束したんでしょ」 「はぁ。それは勿論」  もちろん、ストックの用意はしておく。どうせ時間内に仕上げてきたとしても、ロクでもない作品に違いないのだ。 「それからね辺見君。作家さんってのは、いろんなタイプがいるもんさ。うちら編集者としては先生の気質を把握した上で、先回りする必要があるんだよ」 「はぁ。それくらいは把握しているつもりです」 「なら良いや。よろしくね」  初歩も初歩のアドバイスを頂戴したことで、ようやく戻る事が許された。僕まで新人のように扱われた事が腹立たしい。これでもプロ作家を何人も育ててきたし、その実績を編集長が知らないハズもないんだが。 「まぁいいか。やる事をやるだけ……」  別作業や連絡をこなすうち、時計の針は進んでいく。やがて、短針が7を通り過ぎ、残り時間は30分を切っていた。  もう限界だ。大内さんには悪いが、ストックに差し替えさせてもらおう。そう気持ちを切り替えた、その時だ。 「あれ、メールだ」  受信フォルダには1件の新着があった。まさかと思いながら開くと、送り主は大内さんその人だった。短い本文とともにテキストデータが添えられている。  ギリギリまで頑張ってくれたらしい。でも、どうせ使い物にならないだろう。素人がどんなに背伸びしたところで、プロの世界で通用するハズがないのだから。 「えっ……。何だこれ!?」  僕は思わず腰を浮かした。送られたデータが恐ろしいまでの出来だったからだ。  あのノッペリして読み応えの無かった文には緩急がついた。しかも驚くほどに巧妙で、駆け引きは上々。それでいて、まるで寄せては返す波のような滑らかさすらあった。  物語の展開も絶妙、凄まじいスピード感。さらには随所で見られる会話文も生き生きとしており、架空の人間とは思えない、不思議なリアリティに溢れていた。 「やばい、感心してる場合じゃないぞ!」  僕は急ぎ校正部門に電話を入れた。これから1本送るので、宜しくお願いしますと。
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