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「ケンゼニア団地までお願いします!」  タクシーに乗り込んだ僕は、スマホでメールアプリを開いた。大内さんからの連絡無し。何度も再読み込みを繰り返したが、すべてが空振りに終わった。  あぁ、と後悔の念が口から漏れた。やはりやり過ぎたのだと。 「電話くらい出てよ、先生……!」  虚しく響くコール音は、僕を嘲笑うかのよう。それも自責の念がそう思わせるのか。  大内さんは速筆だった。それでいて高品質な作品を納めてくれるので、今では若手ナンバーワンの地位を確立していた。  そんな理由から、僕は何本も任せる事にしたんだが、それがいけなかった。ここ数日になって唐突に音信が途絶えてしまったのだから。 「彼はちょっと前まで素人だったじゃないか……それなのに!」  大内さんの才能を過信していた。いくら仕事が出来るとは言え、ベテラン級の依頼量を任せるべきではなかった。そう思うと、自分で自分を殴りたくなるが、それには堪えた。  今やるべき事は、編集者としての仕事を全うする事なのだから。 「まずは大内さんの進捗確認。間に合うならノートパソコンで校正者に送信。無理ならストックで穴埋め……」  念仏の様に繰り返すのは、スムーズに動く為だ。今後の展開を頭に叩き込んでおけば、想定外の事態が起きても対応できるというものだ。 「お客さん、お客さん!」 「は、はい。すみません」 「着きましたよ」  いつの間にかタクシーは住宅街に停車していた。支払い、それから領収書。決まりきった作業を終えるなり、外へ飛び出し、目的地まで駆け抜けた。 「ここが大内さんのお住いか……」  一言で評してボロアパート。築何十年か不明な建物は、うっすら歪んでいるようにも見える。 「失礼します……」  ドアを開けたら共有玄関。靴を脱ぎ、木造の階段をミシミシ言わせながら2階へとあがる。  そして廊下を突き当たりまで行けば、先生の下宿先だった。 「大内さん、辺見です。ご在宅ですか?」  呼び鈴を鳴らしつつ尋ねてみる。返事は無い。だが、中からは激しい物音がひっきりなしに響いており、どう考えても留守ではなかった。 「先生、辺見です。開けますよ!」  ドアはいとも簡単に押せた。そして次の瞬間には、6畳1間の室内を存分に見渡す事が出来た。いや、見渡せてしまったと言うべきだろう。 「ホラ、ホラホラ。もっとイイ声だしなヨ」 「アァン、アォオン!」  変態だ。変態の集いだ。まだ陽も高いうちなのに、手狭な部屋は半裸の男とボンテージ女の楽園と化していたのだ。  人が心配しているというのに、この仕打ちはないだろう。フツフツとした怒りを遮るものは何も無かった。 「大内さん。アンタねぇ、いくらなんでも不真面目すぎじゃ……」 「うっせぇ邪魔すんなクソボケコラ! 生皮ひん剥いて雨ざらしにすんぞカス野郎!」 「ヒェッ……すいません!」  反射的に謝ってしまった。こんな罵詈雑言がスッと出てくるなんて、僕を遥かに凌駕する毒舌家のようだ。  向けられた視線の鋭さも恐ろしく、まさに手負いの獣そのものだ。だが時が過ぎるうちに、その敵意も和らいでいく。 「あれ。辺見さん、どうしたんです?」 「良かった、正気に戻ったんですね!」 「これはもしかして締め切りですか? 確か20時までだったと思うんですけど」 「それは月1連載の方ですよ。今日のは17時です」 「あー、ごめんなさいね。勘違いしてたよアッハッハ」 「笑ってる場合じゃないですよ、ともかく仕事に戻ってください!」  僕はボンテージ女を追い払おうとしたが、それは大内さんに止められた。 「あーダメダメ。彼女は必要だから、重要なパートナーだから」 「何言ってるんですか。あと2時間もないんですよ、遊んでるヒマは……」 「大丈夫ですって、閃けばチャチャーっと書けちゃうんで。それまで、少し時間を潰してきてもらえますか?」 「まぁ、先生がそうおっしゃるなら……」  僕は引き下がらざるを得なかった。閉じられたドアからは、質素な建物とは程遠い雑言に彩られた。 「ホラホラ、良い声、だしなヨ」 「アナスタシアさん、もっと強めにお願いします」 「ブタのくせに、指図すんじゃないヨ!」 「あぁっ、出ちゃう! アイディアが止めどなく出ちゃうよぉーー!」  アホらしい。素直にそう思った。なぜ僕は勤務時間中にこんな騒音を聞いてなきゃいけないのか。だから駅前まで戻り、カフェで時間を潰す事にした。  ボンヤリしながら抹茶ラテを啜っていると、メールを受信した。17時きっかり、本日分の納品だ。データは雑な仕上がりだとか、特にそんな事もなく、普段と変わらぬ高品質な物語が綴られていた。 「……ほんとに1本仕上げちゃったよ」  ここでふと、いつぞやの言葉を思い出す。作家には色んなタイプがあり、そして大内さんはダイヤモンドの原石なんだと、編集長は教えてくれたものだ。  僕は心の底から痛感した。大内さんは得難い天才なのだ。それと同時に、途方もない変態でもあるのだと。  だから付き合い方としては、ビジネスパートナーの距離感がベストだろう。
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