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朝日を浴びた電車が、光を眩しく反射させながら駅のホームに到着する。
カラカラに乾いた空気中に漂う埃は、列車のドアが開くと一斉に立ちのぼった。
忙しい、朝のラッシュアワー帯。ギュウギュウ詰めにされた満員電車というイケスから、会社員という名の魚は群れとなり、一気に解放される。
駅をはなれた魚は交差点素早くを泳ぐと、それぞれの持ち場のビルのオフィスへと吸収されていった。
(自ら拿捕されに行くとは、まったく奇妙な生き物だ。)
目につく人々について、そんなこと考えながらエレベータに乗り、いつものように4階のボタンを押す。
私もまた一匹のさかな。手にできる自由といえば、そうだなぁ。ワイヤレスイヤホン越しに聴く音楽を、好きに選べることぐらいだろうか?
今の会社に勤めて、10年になる。社風は完全に身についたし、責任ある仕事を任せられる機会も出てきた。ポジション的には出世魚の赤ちゃん「モジャコ」の時期は卒業しただろう。でも、自分は社内ではまだまだ下っ端だ。出世頭のブリやハマチに及ばない。イナダに数えられるかも怪しいものだ。
エレベーターが4階に着く前に、耳にかけていたワイヤレスのイヤホンを外して鞄にしまう。朝から妙な事を考えたのは、久々に若者の音楽を聴いたせいに違いない。長らく流行の音楽はご無沙汰だった。
原由香はデスクにカバンを置くと、ベージュのパンプスから室内履きに履き替えてパソコンのスイッチを押した。
「原くん、例の件どうなっている?」
編集長がデスクの向こうから大きな声で呼びかけた。
「おはようございます、編集長。」
こちらも朝の挨拶を返す。
声を上げながら考えた。例の件ってどの件のことだろう。
そうしてる間に、原由香のパソコンはジリジリとOSを起動し、メールアプリを自動で立ち上げ始めた。
原に思い当たる「例の件」は3つあった。それぞれ別々の案件だが、大元の出所は一つ。いずれも自分が担当する作家「浜中鉄平」の連載小説「警察官は眠らない」の販売拡大に関するものだ。
原のPCは新しいメールの受信を表示し終えた。新着リストは同じ差出人で埋め尽くされている。
「吉澤ケイ」
仕事のギアが入る。由香の頭に、自分を一心に見つめる「浜中」先生の目が浮かんだ。
「吉澤ケイ」は浜中先生の代表作「警察官は眠らない」に登場するメインキャラクターだ。
このキャラクターの作成に、原は大きく貢献している。はっきり言って、「ケイ」を育てたのは編集を担当した自分だと自負している。
原稿が最初に自分のところに上がってきたのはもう6年も前の話だ。キャリア組の警部「ケイ」は、初期の設定では、主人公であるベテラン刑事の敵対ポジションだった。原稿を読み終えた原は、子犬のような瞳で自分を見つめる浜中先生に言い放った。
「先生。ケイをもっとこう膨らませて、彼の経歴と才能を活かした設定に出来せませんかね?」
原の熱意は、浜中先生の心を動かした。
ケイは小説の中で成長し、その輝かしい経歴とコミュニケーション能力を存分に発揮して読者の人気を集めるようになった。ケイの人気が上がると、彼はどんどん若返って金持ちになり、顔までイケメンになっていく。今では人気キャラクターランキングの中でも彼は1番の出世頭だ。浜中先生まで自らを「吉澤ケイ」とか呼ばせようとする。
ふと思うのは、シリーズを重ねてもケイがシングルなのは、彼を魅力的にしすぎた自分たちのせいに違いない。まあ、その辺は痛み分けってことで。
あれ、どっちのケイの話だっけ。どっちでもいいか。
吉澤ケイもとい浜中鉄平のメールは受信箱の上位を埋め尽くしていた。とても長いメールの後には
「さっき送った原稿だけれど、被害者の心情を書き直した方がいいかな。」と確認を求める別のメールが続く。さらに独り言のようなメール。まだ半分も読み終わらないうちに、新たなメールがケイから届いた。先生は不安なのだと思う。再来月には「警察官は眠らない」はコミック化が予定されていて、先生の頭の中での自由な発想で生み出されていた作品は新たな視点での見直しを迫られているのだから。
原は電話の子機を取り上げると、残りのメールを読み進めながら浜中先生に電話した。
「もしもし、ケイ先生?原です。メール拝見しました。」
「ああ、由香くん?さっき送った原稿はもう一回書き直すから、メールの件はもういいんだ。そっちは元気にしている?」その声はシャッキリしていた。原の声を聞いて少し落ち着いたらしい。
「編集長もみんなもいつも通りですよ。そういえば、準若手の萩さんは取材だそうで、いま席外していますね。」
「PCに詳しい彼ね。あの時は本当に助かった。彼はいつから編集の仕事もするようになったんだ?」
準若手の萩紀夫が担当する作家は新作をちっとも書かない。定年退職した伝説の編集者が担当していた時、彼女は一度だけヒット作を書いている。世に出た作品は、それきりだ。退職した編集者に代わって入れ替わりに担当が2人ついたが、さらにもう一度担当が変わり、萩紀夫が今の名目上の担当だ。それって萩が編集者を名乗れるのだろうか。
でも、編集者遍歴は関係ない。私は以前、彼女の編集者ポジションを本気で狙っていた。
ペンネーム「木野理央」。
女性社員の間でささやかれているジンクスがある。
(木野を担当する編集者には恋人ができてゴールインすることができる)
と、まことしやかに噂されているのだ。
編集長が萩を大注目の木野先生の担当にすると言った時に、女子社員は全員ずっこけた。
「なんで、萩さんが担当なの?彼って情報管理の人だよね。」
この意見には、原も同意する。何かの間違いではあるまいか?
萩の編集者担当お披露目は、社の打ち上げと共に行われた。木野先生の前担当の寿退職祝いと、前々担当の産休前祝いと、萩の就任祝いは一緒くたに行われた。祝いの席で乾杯の杯も乾かぬうちに、木野先生は早速ぶち上げた。
「あら、紀夫くんって原さんと同い年なの?ふたり結婚しちゃえば?」
彼女は素面でそう言った。
(ありえない)
原の目にうつる萩という人物は
「自分のパソコンがどうしてこれ以上処理能力が上がらないのか」PCに向かって何故かぶつぶつと説明し、
「作品のヒットについての頓珍漢な解釈」を妄想し、
「わざわざ取り寄せた冷蔵庫の旧式のカタログを手に、給湯室の冷蔵庫の前でフロンの歴史について語ろうとする」そんな男だ。
でも、考えようによっては萩は誠実な信頼できる男なのかもしれない。自分のパソコンも完璧に設定してくれたし、そういえばコーヒーメーカーも修理してくれた。家にいてくれたら、何かと便利かもしれない。
宴会の席で、初めて編集者の肩書をもらった萩は勧められるままに酒を飲み、すっかり酔っぱらった。気分が解放的になったのかご機嫌になって、他の団体の女性客たちに絡み出した。
「ライン3つもゲットしちゃったぜ!ウエーィ!!」
(やっぱり、この男となんてありえない)
編集長は花より実を取ることを選んだのだ。つまり、社員の個人的な人生の満足度は作品の後回しというわけだ。きっと、私の婚期はもう遠のいた。担当が萩くんなら、木野先生のマッチング伝説もこれで打ち止めだろう。
電話口では、浜中先生の話がまだ続いていた。由香は合いの手を入れる。
「それで、コミックを描いてくれるあの青年は仕事進んでいる?彼も由香くんの担当なんだっけ?」
この頃の浜中先生には何かと気がかりが多い。コミックは先生が一番気にしているところだろう。何せ、先生の頭の中の人物がキャラクター化するのだ。
「先生のお目は確かでしたよ。彼は、勇君はいい絵を描きます。美大を卒業してまだ一年経っていないそうですね。来週月曜日には第一話のラフ画が出来上がりますから、もう少々お待ちください。」
電話しながら由香は残りの未読のメールをどんどんチェックしていった。現時点で、先生の話の聞き逃しや読み落としはないようだ。
ふと、未読メールの中に旧友からの私的なメールを見つけた。タイトルには「女子会のお誘い」とある。由香は受話器を持ったまま立ち上がると部屋のカレンダーボードの前に移動して、自分の金曜の午後の欄にばつ印を記入した。浜中先生の話はまだまだ続く。このまま聞き続けた方がいいだろう。話すだけ話して不安が去れば、午後にはきっと先生の執筆活動が進んで新たなケイの物語が生まれるはずである。
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