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プロローグ
「お前は無価値なんだよ」
「穀潰しが」
腹部に鈍い痛みが響く。もっと身体が大きく丈夫だったらこんなことにはならなかったのだろうか。
口にある牙も小さく、目は威圧感のある金色ではなくただの青色。両親にも他の兄弟と比べられてもう散々だ。
最早口答えをする気力も起きず、目を閉じてただ降り注ぐ暴力に耐えた。パラパラと細い雨がじんわりと地面を湿らせる。森の葉にあたる水の音が俺をせせら笑っているように聞こえた。
蒼い瞳の獣人は、この理不尽な現実から目を背けることは叶わなかった。一族の中で異端な寒色の眼はそれだけで排斥の対象となり、不幸を呼び寄せるなどの尾鰭がついてからはずっと同じことの繰り返しだった。
⋯⋯変わりたい。声にならない想いは相手に伝わることもなく地面に無造作に落とされた。
⋯⋯一人の少年は柔らかな腐葉土の上を歩く。 木の葉の影、風の音、露の輝き、土の清香。
この森は、多様な生き物たちの源流だ。
人間も含め森の生き物は皆雄大な自然の産物に頼って生きてきた。
それは昔から今、そして未来にも通ずることになるだろう。
今まさに歩みを進めている少年もまたこの森にたびたび訪れる。
名前をネスロミーツ・アレスターヌと言う。
優秀で、親切な魔法使いの両親のもとに生を受けた彼。
二人によく似て優しく、賢い少年だ。
——今日は、一人で薬草採りに来た。
お母さんと何度も通った道はすぐに思い出せる。それに、森の木々たちはいつも優しく僕に声をかけてくれる。足元にある土はふわふわしているから転んでも痛くないし、鳥のさえずりがいろんな方向から聞こえてくるからとても賑やかだ。
今日は森の中で一人ぼっち。だけど⋯⋯寂しくない。
その途端、ガサガサっと茂みが音を立てて揺れる。
「わっ!? な、何?」
まさか、お化け⋯⋯? 昨夜読んでもらった絵本に、悪い子がロストスカルに連れていかれる展開が⋯⋯。
「⋯⋯おっと、驚かせてしまってごめんよ。この森に迷ってね。どうやって出ればいいか分かるかい? 老ぼれてしまってはいいことは何もないんだねぇ」
⋯⋯なんだ、ただのおじいさんか。ほっと息をついて、僕は来た道を指さす。
「この先に大きなブナの木があるんですが、そこについたら一番大きな洞から真っ直ぐ歩くと外に出られますよ!」
「ほお、そうかいそうかい。ありがとう、坊や。君はとても心が綺麗だね」
⋯⋯迷ったら周りの植物達に話を聞けば教えてくれるのになぁ。と、少しだけ不思議に思った。
しばらく歩いていると、見覚えのある茂みが見える。それはノイバラの茂み。トゲがたくさんあって、そっと触るとちょっぴり痛い。真っ赤な花が風でゆらゆらと揺れていて、鼻を近づけるとほんのりと甘い香りがする。
事情を説明すれば彼女はちゃんと退いてくれる。少し気難しい性格だけど、話せば優しいことを僕は知っている。
「こんにちは、ノイバラさん。今日も薬草を採りにきたんだ。美しい体を少し退けてくれない?」
そう言うと、返事はないもののしぶしぶといった様子で道ができる。
彼女はつんけんとしているが、本当はとっても優しく、蝶の幼虫が彼女の葉を食べたとしても、振り払ったりせず見守るという素敵な一面も持っている。
「ありがとう! 今度油かすを持ってくるからね」
彼女は何も言わないが、少し嬉しそうに葉を揺らした。それに対して僕は手を振る。
茂みの中は少しだけ薄暗い。木々が生い茂って日光を遮るからだ。だけど、この先には僕とお母さんの秘密の泉がある。
そこは、陽がよく当たって薬草や花々が沢山生えているとても綺麗な場所。今日はそこの薬草を摘む。
茂みを抜けると林冠が途切れ、開けた場所に出る。真ん中には泉が湧き出ており、その水は付近の植物をすくすくと育てる。
花にはミツバチが音を立てて忙しなく飛び回っていて、可愛らしい縞々の体を一生懸命動かしていた。
「平和」と言う言葉はこの場所のためにあるのではないかと思う。
カゴ入っているメモを読んでみると、今日はミナツベリカとキリマテスを摘めばいいらしい。そういえば喉の風邪を良くする薬を作るって言ってたっけ。
僕のお母さんは村の人に薬を作って売るという仕事をしている。「薬草は育てるのではなく自然の中からもらう方がいい薬ができるのよ」というのが口癖で、植物にとっても詳しい。
僕も植物が好きだから沢山のことを知りたいと思っている。去年の誕生日にもらった図鑑の植物は全部覚えたから、今度はもっと沢山の植物が載っていて、詳しい図鑑が欲しい。
計算とか、お話はあまり好きじゃないけど、植物のことなら他の人にも負けない自信がある。
そうそう、これもお母さんがよく言っていた言葉だ。
「人間や動物と同じように、植物同士でもルールを持つ」
互いがトラブルにならないように、大抵は同じ植物が集まって育つらしい。これは図鑑にも書いていなかったことだから、きっとお母さんが見つけた新発見なんだ。
「ミナツベリカは夏色だから、青い花。キリマテスは霧色だから、ふわっとした白い花」
お母さんに教えてもらった童歌を口ずさみながらしゃがみ込むと、ミナツベリカが僕に声をかけてくれた。優しく澄んだその声は、聞くだけでとても癒される。
「あ、ネスロ。今日は一人なの? 珍しいねぇ。」
「うん、もう僕一人でも薬草を摘まないといけないってお母さんに言われたんだ。」
「あら、ちょっとそれは早いんじゃないかしら? 一人で帰れるの?」
心配性なキリマテスは不安そうに口に出す。でも、薬草摘みは楽しいし森に出かけるのも大好きだから不安なんて一つもない。
⋯⋯一つもというと嘘になるけど、実際のところ森へは何度も入っているから慣れていた。
今日だって、一度も迷うことなくここに来ることができた。転ぶこともなかったし、川に入ったり寄り道もしなかった。
もうすぐ四歳なんだから、大丈夫に決まってる。
「もちろん大丈夫だよ! ここには何回も来ているし、それに迷ったとしても森のブナさんが道を教えてくれるから!」
「あら、それなら大丈夫そうね。安心したわ〜」
「もうすぐ夏でしょう? 最近蒸れて蒸れて仕方がないからここらへんを少し透かしてくれないかしら」
そう呟くミナツベリカは夏が少し苦手だ。
赤い花を咲かせる彼女はお話がとても好きで、いつも明るく僕や周りの植物を笑わせてくれる。ただし、この気候は少し暑すぎるようでぐったりとしている。
暑さが苦手なのは彼女だけに限った話ではなく、ここ一帯の薬草は冷涼な気候を好む。
僕が枝を透かして薬草達は夏が過ごしやすくなり、僕は沢山の良い薬草が手に入る。自然と人間は昔から、そしてこの先ずっと仲良しだってお母さんが言っていたのを思い出した。
自然がないと人間は生きていけないと思うし、僕も同じように思う。
「ネスロー! 僕も暑いから透かしてくれるー?」
「私も私も!」
周りから沢山の草花たちが次々と暑さを訴える。今日摘む必要がある薬草ではないけれど、せっかくだし刈り取ってあげよう。
「分かった! それじゃあ痛くないようにみんなに魔法をかけるからね」
掌を上に振り上げ、深呼吸をする。
そして、意識を植物たちに向け、胸を開き大きな声で唱える。
——ヘルッシーオ!
涼しい風が、森の香りを運びながら泉の周りを吹き抜けた。呪文を一言唱えれば、魔法が発動する。
僕は魔法が使えているか分からないが、植物たちによると痛みは全く感じないそうなので上手く使えているようだ。
この前なんて魔法が上手だと褒められたんだ。でも、火の魔法や水の魔法はまだ上手に使えないから練習する必要がある。
⋯⋯お母さんやお父さんみたいなかっこよくて、優しい魔法使いになるのが僕の夢。薬を作ったり、魔法を使って沢山の困っている人や悲しい思いをしている人を助けたり、笑顔を広めたい。
そのために苦手な計算も人とのお話も頑張って早く上手にできるようにするんだ。
「大丈夫? 痛くない?」
まあ、いつもの癖で痛くないか聞いてしまうけど。せっかくお話ができるのだから痛くないか聞いてあげた方が絶対いいはず。
「——全然痛くない、どんどん摘んで!」
薬草を摘む時は痛みを感じないように簡単に魔法をかけるべきだ。いくら植物達が何度も枝を伸ばせるとしても、身体を切ると言うことは痛いはずだ。
⋯⋯それに、痛いのは人でも植物でも、いやだろうから。
全ての薬草を摘んで透かした後には日が真上に登っていた。ポカポカと降り注ぐ陽だまりが心地よく身体を暖めてくれる。
深呼吸すると、土の香りと薬草の香り、花の香りや水の香り。沢山の香りがする。やっぱり僕は、この森が大好きだ。
もしもお家がなくなったら、ここに住みたいと思っている。
「おつかれさまー! これでしばらくは暑くなさそうだよ!」
草花達の満足げな声に僕も仕事をした甲斐があった。カゴに入った枝葉を見れば分かる通りかなりの量の薬草が手に入った。大収穫だ。
「僕達も薬草が必要だからとても助かったよ。いつもありがとう!」
一言お礼を言って、お気に入りの場所に向かう。今日のお昼はサンドイッチ。僕の好きな食べ物だ。
何が挟まっているんだろう? ハムかな? トマトかな? それとも、チーズ? もしかして、マスカレートのジャムサンド?
「早く食べたいなぁ!」
ノイバラの茂みを前にして、泉に向かって手を振る。彼らは手を持っているわけではないけれど、手を振り返しているような気がした。
待ちきれない! 駆け足で森の中のお気に入りの場所へ走る。
ノイバラの茂みを駆け抜ける少年。
そんな彼を草花たちは温かな目で送り出す。この調子だとこの暖かい日だまりは崩れることなく夜まで続くだろう。
春よりも少し暖かくなってきたこの気候は植物が過ごすには丁度いいか、少し暑いくらいだ。
泉に、静寂が流れる。ネスロと彼の母親以外ここを訪れる者はほとんどいないのだ。
そのため、ここは森の中でも特に豊かな自然が美しく保たれている。
「はぁ⋯⋯。これで、この夏も楽に過ごせるけど」
切られた部分が滲みるように痛む。
ネスロは森の近くにあるフロールリ村に住む魔法使いの少年。痛みを感じない魔法をかけてくれるが、うまく効いていないようだ。
「ま、まあネスロはまだ子供だし! 魔法はこれから上手く使えるようになるわよ!」
「そうだといいんだけどねぇ⋯⋯」
——先天性魔力欠乏。
生まれながらに持つ魔力が少なく、魔法が使えない。使えたとしても魔法がうまくかからない。持続時間が短いなどの弊害が生じる。
過去には魔法使いの中で差別の対象となったり、無価値の魔法使いとして奴隷にさせられる時代があった。今でこそそのようなことはなくなったが、世間から向けられる目はまだ厳しいものがある。
そして、なぜ先天性魔力欠乏の子供が生まれるのか。今でも原因はハッキリしていない。
「⋯⋯マーグリーが魔法をかけてくれるときは全く痛みを感じないのだけど⋯⋯」
彼の母親は素晴らしい魔法使いで、優しい笑みが特徴だ。ネスロのように植物の言葉を理解することはできないものの私たちにも親切にしてくれる。
薬の調合の腕はこの村で右に出るものはいないようで、どんな風邪も彼女の薬を飲めばすぐに良くなるらしい。
「だーかーらー!ネスロはまだ子供でしょ!あの二人の子供が先天性魔力欠乏なんて⋯⋯。ありえないわ!」
ザワザワと騒がしく草花たちは会話を始め出した。
収集がつかなくなる前にブナの若木は咳払いをする。しん⋯⋯。と森のざわめきが失せる。
「だが、母親であるマーグリーは3歳でもう使えていたはずだ。ネスロはもうすぐ4歳。それでもうまく魔法がかからないとなると、その可能性もありそうだな⋯⋯」
その一言は泉を重苦しい空気で満たした。
——差別の少なくなった今の時代でも、先天性魔力欠乏について触れることはあまり良しとされていない。
魔法使いにおいて魔力は、自身の価値を決める絶対的なもの。それほど最重要視されているものなのだ。
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