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第九話「裏切り⋯⋯?」
首に冷たい刺激が走る。服が湿っていることからすると天井から水滴が落ちてきたようだ。
少し待つつもりが階段で思いっきり寝てしまっていた。座ったままの姿勢で眠っていたからか節々が痛む。
水滴が地面に当たる音が、一定のリズムを持って薄暗い階段を流れる。
「いててててて⋯⋯。まさかここで寝ていたとは⋯⋯」
「お、お目覚めになられましたか? 魔法使い様⋯⋯」
「うわっ!」
いきなり声が後ろから聴こえてきたので結構大きな声をあげてしまった。声の主はこの部屋に案内してくれた猫の獣人だった。
お互い驚いた様で固まっている。
「ま、まさかここで寝ちゃってたとは⋯⋯」
万が一主人に見つかっていたら彼女が叱られるかもしれなかったと思うと冷や汗が出る。本当に危なかった。
「ところで、今って⋯⋯」
「もうすぐ夜が明ける刻となっております。今日は満月なので明るくなるのも早そうです。あっ、申し訳ございません⋯⋯。実はもう少し早く起こそうかとも思ったのですが私が勝手に声をかけるのは悪いかと⋯⋯」
そういえば、勝手に話しかけてはいけないということを言っていた。それなのに心配してくれて声をかけてくれたことにすこし嬉しさを覚えるのに加え申し訳なさが込み上げてくる。
「そんなに寝ちゃってたんだ⋯⋯。こち
らこそごめんなさい、心配かけさせてしまって」
いえ、大丈夫です! と言うように手で仰いでから言葉を紡ぎだす。
「⋯⋯魔法使い様は、他の人とは違ってお優しいですね」
その言葉を素直に受け止めることができるほど、僕は人として素晴らしい人間ではなかった。
——決して、僕が優しいわけではない。もともと僕も獣人に対して悪い感情を持っていたし、今だって少し距離がある様に感じている。証拠に、僕は彼らとの心の距離を無視して土足で踏み入ってしまった。
これは僕が自分のことしか考えていない何よりの証拠だろう。
所詮僕は彼らに対する実際の扱いを見て狼狽えているだけだ。
「ううん、僕も他の人と変わらないよ。ただ僕が住んでたフロールリ村よりもこの街はその⋯⋯。扱いが酷いって言うか」
ピチョン⋯⋯と水滴が垂れる音が闇の中に溶け込む。響き渡る残響がどこか不気味だった。
しばらくボーッとしていると、彼女は何かを思い出した様に突然焦りだした。
「あ、こんな寒いところで引き留めてしまって申し訳ございません! それでは、朝まで短いですがごゆっくりと⋯⋯」
「うん、もう少しだけ休もうと思うよ。おやすみなさい」
一つ礼をして、扉を閉めてくれた。部屋の中にはなぜか酒の匂いが立ち込めている。
足元にはおそらく瓶があちこちに散らばっているのだろう。うっかり踏んで転ばない様にしなければ。
「どうしよう、寝るところがないな⋯⋯」
部屋に灯りは一つもない上瓶がそこらに転がっている。転ばないように手探りで動くしかない。
そうして寝る場所を求めていると、何かの気配を感じた。
「おい、人間」
どこからか声が聞こえる。
「あの、暗くてどなたが話しているのか分からないのですが⋯⋯」
キョロキョロと見回してみても闇、闇、闇。慣れていない目は何処に誰がいるのかどころか、自分が今何処にいるのかも分からなかった。
すると、肩に重みを感じる。
咄嗟に後ろを振り返るが、肩を固定され動けない。酔っ払いに絡まれてしまったか。酒の匂いが強い。
「もしも、このままこれを引いたらお前の首はどうなると思う?」
⋯⋯ちがう。雰囲気はピリピリと張り詰めていて、殺伐としている。ケルを起こそうかとも考えたが、彼らのその後の処分が恐ろしくて、やめることにした。
それでは、僕はただ獣人達を危険に晒すためにこの部屋に来たことになってしまう。
僕が何も行動を起こさないことを良いことに、声の主は喉で笑いながら僕の首元冷たいものを当てた。声に聞き覚えがあるが、行動からしてケルではなさそうだ。
親戚か⋯⋯? しかし、似たような毛色は一度も見ていなかった。
「⋯⋯もしも僕を殺したとしたら、あなたにはどんな処分が下るのでしょうね」
実際そうするつもりはないが、僕がそう一言告げた瞬間。スッと首に一筋の痛みが走る。タラリと垂れる何かが血液であることに気づくのは少し後のことだった。
その直後生暖かい風が肌をかすめ、湿った何かが首を伝った。汗が冷えたのか、背中が異様に冷たい気がした。
「やっぱり血はうめぇな⋯⋯。魔力が全身に染み渡る⋯⋯」
会話が成り立たない。僕の話を聞こうとすらしないその態度に少し苛立ちを覚えた。たしかに、人間のことは嫌いかもしれない。もしかしたら、酷い扱いを受けているのかもしれない。けれど、僕は彼らに酷いことをしたわけではない。なのに、僕に怒りの矛先を向けるのは無意味だ。
それに、自分よりも弱者を甚振るのは、獣人と人間の関係と同じだ。結局のところ、人間も獣人も変わらないのかもしれないと感じた。
「聞いているんですか? 大体、この街でのあなた達の立場は⋯⋯」
その先を言うのは躊躇われた。
いくらこいつが最低でも、ケルのような優しい人がいるのを知っているからだった。
それに、このままでは彼に酷いことを言ってしまった時と同じ様に、種族を否定してしまう。
なんとか喉から出かけた言葉を飲み込んだ。
「⋯⋯すみません。なんでもないです。とりあえず、朝に話を聞かせてください。落ち着いたらまた話をしましょう」
僕がそう言った直後、強く突き倒され床に背中を打つ。石の床は鈍い痛みを与えた。衝撃を受けたところから水が滲みるように痛む範囲がじっくりと広がっていく。
なんとか姿勢を正すが、既に奴は目の前にきているようだった。
声が真上から聞こえる。見下されているような体制になっているようだ。慣れてきた目は、奴の口が動くのを確認できた。
「んなこと知ったことか。所詮人間共は獣人の餌だ。黙って食われてろ」
それを聞いた途端、突然怒りと恐怖で震え始めた。肌寒いほどの悪寒が身体中に走る。きっと本能的に威嚇しているのだろう。
——なぜあの一言でこんなになったのかは分からないが、とにかく、とてつもない嫌悪感が私を襲った。
「違う! 私たちはお前らの餌なんかじゃない!」
気丈に振る舞ったは良いものの、奴は僕に抵抗する術がないことを理解しているようで、ジリジリと近づいてくる。
思わず後ずさる。もう、立って逃げることもできないほど足が震えていた。助けて。と叫ぼうとした声は喉から生まれ出ることはなく、ただ胸の中に取り残されてしまった。
息が取れない。心臓の音が早くなり、苦しい。怖い。
「⋯⋯その顔、最高だ。獲物はやはりこうでなくちゃ」
いつのまにか暗闇になれた目によって顔が見える。そこに立っていたのは少しだが冒険を共にしてきた「彼」の姿だった。
「⋯⋯ケルさん?」
声が震える。今までこんなことはなかったのに。本当は僕のことが嫌いで嫌いで仕方がなかったのか? 仲間が沢山いるこの部屋におびき寄せて殺すつもりだったのか?
肩を掴まれ、首に息がかかる。
——このままでは喉を噛み切られる。
「⋯⋯やだ。やめてください!」
つい押しのけてしまう。明らかな拒絶だ。昨日までの優しい姿が音を立てて崩れていく。それを信じたくなくて、止めて欲しいと懇願した。でも、彼は足を止めることがなかった。
「⋯⋯もうやだ。裏切られたくないよ⋯⋯」
涙が思わず流れてしまう。せめて、殺すのなら優しさを見せないで欲しかった。温もりを知る前なら、どんな運命でも耐えられたはずなのに。何も失うものがなかった頃よりも、弱くなってしまったのかもしれない。
⋯⋯何度森を尋ねても、人見知りな僕の唯一の友達は顔を見せなかった。次第にあれは自分が作り出した妄想であると思い始めて、記憶の奈落へ堕ちていく。
あんな、口約束を覚えてるわけないじゃないか。それなのに、どうして僕は諦め切れないんだろう。
そんな彼に会うという叶うことのない夢もついに終わりを告げるんだな。と、目を閉じた。
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