第十五話「主人の思い」

1/1

36人が本棚に入れています
本棚に追加
/98ページ

第十五話「主人の思い」

 久しぶりの感触。体の痛みを全く感じさせないベッドでの起床は実に何日ぶりだろうか。カーテンを開けると空には薄灰色の雲がほんのり浮かんでいる。早朝ということで足元がヒンヤリと冷たい。  パッチワークのようなツギハギの使い古した帽子を被り、部屋を出る。くたびれた帽子は形を保つのもやっとなほどだ。ベッドを綺麗に直し、部屋を出てドアの看板をひっくり返す。忘れ物はないはずだ。  階段を降りてカウンターへ向かうとすでにケルは僕よりも先に起きていたようで、どこか落ち着かないように待っていた。 「おはようございます。よく眠れましたか?」  主人の声に、僕は迷うことなく返事をする。部屋も綺麗で、ご飯も美味しい。ここはとても良い宿だった。 「はい、お部屋も綺麗でとてもリラックスできました。ご飯も美味しくて大満足です!」  そう言うと奥さんの顔に優しそうな笑みが浮かんでいた。なんだか懐かしい気持ちがする。そこで、昨日伝えられたことを思い出した。ケルがいると話しづらいだろうから少しだけ席を離れてもらう。 「⋯⋯そうだ、ケル。今日はこの宿に用事があるから最初に仕事してきてくれる? よろしくね」  そう言うと、少し驚いたような顔を見せたもののすぐに平常の様子に戻った。 「仰せのままに。それでは行ってまいります」  木のドアが軽い音をたて、開閉した。用事というのは、昨日頼まれた「教育係」のことだ。 「⋯⋯昨日のことを話そうか。こっちに来てくれるかな」  主人に手を招かれ奥の部屋に連れられる。長い間使われていたであろう丸太の机に椅子が4つ並んでいて、家族団欒を想起させる。そして、シェルフの上にはミナツベリカの花が生けられており、これもまた心を和ませるものだ。  暖かな暖炉の中には大きな揺らめく炎がパチパチと音を立てている。体の奥から暖まる。 「ここに座ってくれるかい。君にまず話さないといけないことがあるんだ」  一つ小さめの椅子が引かれる。高さも大きも僕にもちょうど良かった。目を伏しがちにして、主人は口を開いた。 「⋯⋯昨日の話を聞いていたのなら、察していると思うのだけど」  少し重苦しい空気に思わず固唾を飲み、耳を澄ませる。決していい雰囲気ではない。 「私は妻とこの宿を経営しているんだ。ある時までで、私たちは子供に恵まれなかった」  そう懐かしそうに語る口草は、どこか哀愁を漂わせている。僕にはただ黙って聞くことしかできなかった。 「⋯⋯まあ、かなり前になるね。ようやく生まれてくれた私たちの息子が君ぐらいの時に病気で亡くなってしまって。そこから私の生活は荒んでしまったんだ」  医師による治療も虚しく身体が病魔に蝕まれ刻々とやせぎすになっていく息子。それでも苦しさを隠し笑顔を絶やさずになんとか繋ぎとめていた命もついにはプツリと糸が切れるように絶えてしまったらしい。 「⋯⋯意外かもしれないが、もともと私たちは獣人たちに対する差別には反対していたんだ。この宿を開いたのもどんな人でも分け隔てなく泊まることができるようにということで始め、それに加えて彼らに職の提供をしようと思ったんだ。君も見ただろう? この町にある店のほとんどが獣人の入店も許されていないんだ。質屋と喫茶店、薬屋が許可されている程度だよ。それも、パーティ以外の利用は認められていない」  たしかに、街を見渡してみれば看板に必ずと言っていいほど書かれているのは「獣人お断り」である。そんな中この宿屋は入店を拒否していなかった。もっとも、現実には一つの部屋に雑魚寝のような形で押し込まれているが。  ここで、純粋に僕の中に浮かんだ疑問を口にする。 「どうして、そんなあなたが獣人⋯⋯。特にあの猫の獣人にひどい仕打ちを?」  それならば宿を始めるきっかけから見てあの仕打ちをするのに違和感を覚える。思えば他の人、特にこの街の人はケルに対して不快感を顔に浮かべるのだがこの人は特にそんな様子もなくただの僕の奴隷として見るだけだった。 ⋯⋯言い方は悪くなってしまうが普段周りの人が言う「見た目が異端」であるなどと何一つ咎めたりはしないのだ。 「——思い出してしまうんだ、息子を」  ポツリと机の上に一つの滴。  思わず顔を見上げると、目からは大きな涙が溢れていた。それに気づいた彼はどうにか抑えようとしているが、堰き止めることはできない。  震えた声で主人は一つ一つ言葉を紡いでいく。それは、思い出のカケラを見つめなおして繋げているかのようで、時折懐かしそうに話す。心が痛くなった。  彼女は捨てられた獣人の子供だったこと。息子の遊び相手、そして家族としてこの家に養子として迎えられたこと。一緒にご飯を食べて、本を読んで、お菓子を作って、毎日が幸せだったそうだ。  けれども、その幸せは不幸の闇に塗りつぶされることになる。  なす術もなく長く苦しみながら。病気に身体が蝕まれながら死んでいった息子。その結果残った彼女を見るたびに映り込むのは死んだ彼の幻覚。頭の中ではもう死んでしまったと理解しているのに、それでも目の前には子供が見える。見つけては、消え。見つけては、消えてしまう。そんな中で一つの答えにたどり着く。 ——私が苦しむのは、こいつがいるせいなのではないか?  どこか苦笑いを浮かべながらこうも話した。 「自分でも、彼女にひどい仕打ちをしたところでなんの解決にもならないことを知っているんだ。それに、血は繋がっていないものの娘。できることなら、昔のように暮らしたい。けれども、見れば見るほど思い出してしまう息子のこと。⋯⋯もっとも、今更謝ったところで許されることではないのだけどね」  空笑いが天井に反響する。これは、お互いに話をする時間を設けなければいけない気がする。でも、二人きりでは話にならないのだから、誰かが間に入って。  しばらくの空白の時間の後、主人も落ち着いたのか涙は止まっていた。 「とりあえず、話は分かりました。ところで、彼女は今どこに⋯⋯?」 「ああ、おそらく今の時間は畑を耕していると思うよ。すまないね、お客さんにこんなことを頼むのは⋯⋯」  頭を掻きこれまた苦笑いをし、伸びをする。目は潤んだままだった。 「いえ、僕には話を聞くことしかできませんから。それでは、彼女とも話をしてきますね」  宿を出て裏に回ってすぐのところに畑があるのを前に見たのできっとそこだろう。美味しそうな食材に少し期待しつつ、彼女と話をするため向かうことにした。
/98ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加