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第十七話「特別なラベンダー」
白い美しい外壁に、屋根の上には黄金の鐘が取り付けられている。中に入ってみると大変静かで、誰もいない。
この様子は少し不気味さも感じるほどだ。今までの罪をジッと照らされているような感覚がする。
「⋯⋯なんか、不思議なところだなぁ」
歩くたびに靴の音の残響が上から降ってくる。椅子がズラッと並んでいて、奥の椅子を見ると一冊の古い本が置かれていた。
「誰かの忘れ物かな? ちょっとだけ読んでみよっと」
表紙は革でできており、高級感がある。題名は表紙には書かれていない。
大切に読まれていたようで古いものにしては小綺麗だ。ページは色褪せているものの、破れやほつれはほとんどなくあっても気にならない程度だった。
ゆっくりページをめくるとそこには普段は使わない文字が書かれている。その文字に少しだけ見覚えがあった。
⋯⋯魔法学校入学試験最初の砦、ロステリア帝国文字だ。
魔法学校に入学する生徒にとってまず難しいとされる分野の一つがロステリア帝国文字だった。難解な文法、沢山の語彙などが受験生たちを悩ませる。
魔法特性上級、魔物知識上級、ロステリア帝国文字が魔法学校受験における苦戦する分野であるらしい。
僕も最初は苦手だったものの、試験では満点を取れるほどには勉強をしていた。
「この文字⋯⋯。ロステリア帝国文字かな? となると、忘れ物じゃないか⋯⋯」
ロステリア帝国文字は大昔に栄えたロステリア帝国でのみ使われていた文字である。
一般の人が読み書きできるようなものではないので、おそらく教会のものだろう。
パラパラとページをめくって読んでみる。
この本は特に難解だ。知っている単語を繋げてみてもまるで意味がわからない。あれほどに学んだのにこれほど読むことができないので悲しくなる。
「魔法使いと⋯⋯月が⋯⋯? 導きの⋯⋯音を⋯⋯。それがどうかしたのかな」
ページをめくっても、何を伝えたいのかが分からない。
——パタリと本を閉じる。
誰のものか分からないのに勝手に読むことに少し罪悪感を感じたからだ。それに、今まで勉強してきたものが役に立てないことに嫌気がさした。もとにあった場所にソッと置く。
「ロステリア帝国文字なんて読める人⋯⋯」
解読できるなんて人は魔法学校の教授ぐらいだろう。となると、この本の意味を一生理解することはなさそうだ。
⋯⋯まただ。またこうやって一人で思い悩んでいる。せっかくケルに新しいチャンスをもらったのに、自分はそれを活かせないままずっと過去のことに縛られている。
そんなことをするのが一番無駄であるのは分かっているのに、今までの生き方を完全に手放すことは僕にとって大変難しい。
「⋯⋯こんなことよりあの二人の話し合いのことを考えないとなぁ」
その時、フワッと芳香が鼻をくすぐった。これは、季節外れのラベンダーの香りだ。一体どこからだろう。
秋の風に乗った香りが僕の体全体を包み込んでいく。
「今咲いてるってことは、秋咲きのラベンダーか」
とても良い香りである。教会の椅子に腰掛けて、ゆっくりと香りを楽しむ。さすがラベンダー。リラックス効果で先ほどまでの憂鬱はすっかりおさまっていた。
その時、一つの稲妻のような刺激が脳に走り、ある考えが思い浮かぶ。
「ラベンダー⋯⋯。これ、使えるんじゃ」
この香りの鎮静作用とリラックス効果を期待して、話し合いの時にラベンダーを机に飾ってみてはどうだろうか? それなら、主人も幻覚を見ることなく落ち着いて会話ができるのかもしれない。
⋯⋯しかし、ひとつだけ心配なことは花を生けるだけで効果が期待できるほどの香りが出ないということだ。もっと効果を高めるには、香水のような形にするべきだろう。
ほのかに香る香りを辿ってみると、どうやらラベンダーの刈り取りをしているらしい。ひとつだけ畑が紫に染まっていた。周りの茶色い畑とは違った、鮮やかな紫だった。
刈り取り作業をしている一人の中年の女性に声をかける。緑色のエプロンにカゴを背負ったその様子はラベンダー農家に見える。
「すみません、これってラベンダーですか?」
すると、こちらに気がついたのか振り向くと驚いたような顔をされる。
「おー、そうだよ! そんな小さいのによく分かったねぇ。秋咲きラベンダーなんてそんな見ないから普通はセージと間違えられるんだけどね」
カゴにはたくさんのラベンダーが積まれている。これから売るのだろうか?
「前は山に住んでたので薬草には詳しいんです! ところで、このラベンダーってこれからどうするんですか?」
「乾燥させてお風呂に入れたりお茶にするんだよ。よかったら持っていくかい?」
一握りのラベンダーの花穂を手渡される。
「いえ! お金は払います! 1束いくらぐらいになりますかね?」
「なーに言ってんのさ! 売り物にならないラベンダーだしタダだよタダ! ほら、持っていきなさい!」
そういうと両手にラベンダーを掴んではこちらに手渡してくれた。
「あ、そんなには貰えないです⋯⋯。それにしてもどうして売り物にならないんでしょう? 香りも良くて傷んでもいないのに」
僕が今腕いっぱいに抱えているラベンダーからはとても素晴らしい香りを纏っている。痛みもなく、これほどの量があればかなりのお金にはなりそうだ。
すると、彼女は少し悲しそうな顔をして口を開いた。
「君は、スパイクラベンダーって知ってるかい?」
「はい、ですがこちらはトゥルーラベンダーですよね?」
秋咲き性を持ち、そしてこの大きさと葉の様子からこれはスパイクラベンダーではないだろう。
この特有の香りもトゥルーラベンダーにふさわしい上品な香りだ。
「そう! 何を隠そうこれはトゥルーラベンダー。けれどもこの街の人はみーんなスパイクラベンダーのほうが好きなんだよ! トゥルーラベンダーは甘くてくどいって言うんだ。まったく、ラベンダーと言ったらトゥルーラベンダーなのに」
「そうですか? 僕はこの匂い好きですけど。ラベンダーの鎮静作用はスパイクだとあまり望めませんし」
いきなり肩を両手で掴まれる。それに一瞬たじろぎながらもなんとか転ぶことはなかった。
「そうそう⋯⋯そうだよ! いやぁこの街で私と話が合うやつなんて初めて会ったよ! あんた、名前は?」
肩を揺さぶらりながら迫られる。カゴからラベンダーがポロポロと地面に落ちているのが少しもったいない。
「ネスロミーツ・アレスターヌです。長いのでネスロと呼んでください」
「ネスロかい! 気に入った! あんたにこれからいいもの見せたげるわ! ついてきな!」
唐突に腕をグイッと引かれ連れていかれる。ラベンダーを落とさないようなんとかバランスをとりつつ、香りも楽しみつつ後ろにつく。
こんなことになるとは思っていなかったけれど、ラベンダーの香りに誘われて僕はその「いいもの」を見に行くことにした。
しばらく歩いていくとだんだんと人もまばらになってきた。
市街地のように舗装されているわけではなく、あたりには広大な畑がありポツポツと家が建っている。フロールリ村での長閑な風景を思い出す。
壁のように建っている建物はここにはなく、空がとても広く感じた。
「⋯⋯デヴァリニッジって、畑も広いんですね」
「みんな街の中心に集まりたがるが、私からしたらこれくらい静かな方が落ち着いて暮らせるってもんよ。買い物には少し不便だけどね」
一面に広がる畑は同じ街、「デヴァリニッジ」にいることを忘れさせてしまいそうだ。流れていく景色を楽しみながら歩いていった。
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