第十八話「精油蒸留器」

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第十八話「精油蒸留器」

 腕を引かれていると、小さな古い小屋に着いた。大きな木下にあるからか影の下にあって薄暗く、少し不気味だ。 「これ見て腰抜かすんじゃないよ! ほーら!」  そう言うと立て付けの悪いドアを2、3回蹴り開ける。チリが舞った先にあったのは埃をかぶった大きな機械だった。  掃除が行き届いていないようで大変古そうに見える。 「こ、これは⋯⋯?」  円柱状の大きなパーツが二つ並んでいて、それらが管で繋がっている。これがどうして「いいもの」なのか、僕には分からなかった。  唖然としていると、彼女は大きな機械を指差して得意げに話す。 「これは精油蒸留器さ! これほど大きいものはまだまだ珍しいんだよ。そうだ、ネスロ。薪オーブンは使えるかい?」 「はい、使ったことありますけど⋯⋯」  オーブンなら昔パイを焼いていたので使うことはできるはずだ。しかし、あたりを見回してみてもオーブンらしきものは見当たらない。 「オーブンなんてどこにあるんですか? 見たところそれらしきものはありませんが⋯⋯」 「ハハッ、オーブンを使うわけじゃなくてただ火を灯し続けられるかどうか知りたかったのさ。オーブンが使えるなら話が早い! とりあえず水をたくさん汲んできてくれるかい? このバケツにたっぷりね」  そういうとどこからか鉄バケツが飛んできた。それにしてもお婆さん、結構物使いが荒い。  歪みの多い金属のバケツを見ると今までの扱いが想像できた。  バケツを憐んでいると奥から大きな声がする。 「ちゃんと冷たい水をもってくるんだよ!」  それを聞いて思わずバケツを落としそうになってしまった。数回手の上でバウンドした後なんとかそれを掴むことに成功した。 「わ、分かりました!」  言われるがままに小屋を出る。そういえば近くにため池があったのでそこから汲んでこよう。それにしてもこれを何に使うのだろうか? 疑問は残ったままだった。  池の水は綺麗で澄んでいた。温度も冷た過ぎるわけでもなくちょうどいい。  バケツを水面に入れると一気に重みが腕にのしかかる。入り込んだ水が空を反射して鏡のようだった。  再び小屋に入るとおばあさんは機械を叩いたりしている。そのせいで故障しないかどうか心配になり、すこし戸惑いを覚えながらも声をかける。 「⋯⋯これでどうでしょう?」  バケツを床に置くと彼女は水に手をつけ、その後指でバッテンを作った。どうやらダメだったようだ。 「なんで井戸の水じゃないのさ! これは池ですくってきたね。裏に井戸があるって言ってたでしょう!」  言われた覚えのない言葉に思わず否定をしてしまう。存在を確認していなかった井戸から水を汲んでくることになっていたらしい。 「いや、言ってな⋯⋯」 「ほらほら早く持ってきなさい! ちゃんと井戸の水汲むんだよ!」  再びバケツが投げるように飛んできた。その勢いで水が飛び散りローブにかかる。悪気はないのだろうが、流石にこれにはすこし苛立ちを覚えた。 ——なんだろう、失礼かもしれないが最初にに彼女にトゥルーラベンダーを処方するのが一番良い気がする。 「⋯⋯よし、こんなもんだね!」  井戸の水を汲むこと5回。最初の一回を含めると6回分の水の重みが腕に負荷をかけていた。プルプルと震える二の腕を抑えつつ機械を見つめてみる。  僕のくんだ水はどこへ行ったのかというと、精油蒸留器の中へ二つに分けて注がれていった。 「じゃ、用意はしておいたから薪オーブンの要領で火をつけてみなさい!」   早く早くとマッチを手渡される。箱に数回擦り付けるとジュッという音と共に棒の先に炎が灯る。それを燃料のところに投げ入れると瞬く間に燃え広がった。  炎の揺らめきを眺めていたい気持ちもあったが、風が入らないように蓋を閉じた。 「あとは時々空気を入れたりして燃やし続けるんだよ。おつかれ、少し休むことにしよう」  埃を手で払い椅子に腰掛ける。精油蒸留器というからには精油が手に入るわけだが、はたしてうまく行くのだろうか。  湧き出す好奇心がどのようにして作られるのか知りたがった。 「あの、この機械の仕組みって教えてもらえますか?」  彼女に尋ねてみるとしばしの沈黙の後に口を開いた。 「ああ、まずこの機械は精油を得るものなんだ。蒸気で薬草を蒸すことで集める水蒸気蒸留法といってラベンダーとか香りが強いものに向いているんだよ。仕組みはよく分からないけどまあ精油が手に入る機械さ!」 「そういえば、香りがさっきよりも強くなってきたような⋯⋯」  小屋の中にラベンダーの香りがたちはじめた。それを目を閉じて一つの感覚で楽しむ。  広大に広がるラベンダー畑をたやすく想像することができた。 「ほら、来てご覧! 精油が出てきてるよ!」  声の方向を見ると手を招いている。  遠目から覗いて見ると、機械の細い管から水滴がポトリ、ポトリと落ちてきていた。これが精油だろうか。 「これが精油ですか? たしかにラベンダーの香りがしますね」  刈り取ったラベンダーと同じくらいの香りがこの一滴一滴からする。普段精油は買うものであり、しかも高級品であったので作り方はおろか実物を見ることもなかった。 「いや、これは精油じゃなくて、精油とフローラルウォーターが混ざっているんだ。蒸しが終わったら油と水に分離するからその上の部分だけ取るのさ」 「え、つまり⋯⋯。この表面の膜みたいなものが」  そう尋ねると、彼女はうなずいた。これでは高級品であるのも理解できる。  それにしても、水滴が一つ一つ落ちていくたび香りの粒が散らばるようだ。眺めていると心がとても落ち着く。ラベンダーの効果だろうか。 「精油の蒸留なんて初めて見ました。こうやって作られていたんですね」 「昔は私も良く作っていたんだが歳のせいか面倒になってね⋯⋯。作るなんてもう五年ぶりさ。どうだい、明日から精油作りをしないかい?この機械は勝手に使ってもらって構わないよ。」 「え、あのラベンダーって精油を作るんじゃないんですか?」  あの量のラベンダーがあれば精油はかなりの量できるだろう。しかし、彼女は否定するように手を振った。 「あのラベンダーは売れないからねぇ、ほとんど私が使うだけでダメになったのはみんな廃棄さ。使ってくれた方がこっちも助かるんだよ。それに、機械だって使ってもらった方が長持ちするもんさ。」  すこし寂しげな声のトーンと、好意から僕はその機械を使う権利を受け取ることにした。 「そうなんですか⋯⋯。それじゃ、明日も来ます!」 「そうこなくっちゃ! それじゃ、今日からはネスロがこれを自由に使っていいんだ。決まりだよ!」  ラベンダーの香りが小屋を包む。 ⋯⋯この香りを使えば、あの二人も落ち着いて話ができるのではないだろうか?  霧で覆われていた視界が少し開けるような心地がした。
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