第一話「森の中で」

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第一話「森の中で」

 苔むした倒木の上に腰掛ける。柔らかな苔がクッションの役割をしてくれる。  この葉がささめく中、幹に腰掛けてカバンを開けると、いつものサンドイッチと同じようにフカフカなパンの間にトマトとチーズ、ハムが挟まっている。 「ネスロ、美味しそうだねぇ。それ、サンドイッチ?」  この声はブナの木さんだ。困った時は彼等に聞けば大丈夫。この森で迷う人が少ないのも彼等が優しく導いているからだとお父さんが言っていたのを思い出した。 「うん! 美味しそうでしょ? 今日は一人で来たからね〜。特別なサンドイッチなんだ」  ブナの葉がサラサラと音を立てて風に揺れる。それが心地よくて、楽しみながらサンドイッチを掴んだ。  その一つを手にとって口を開けた時だった。 ——嗅いだことのない獣の匂いが鼻につく。 「あれ⋯⋯。食べ物の匂いがしたのかな」  この森は自然が豊かだ。動物が沢山住んでいるのも知っているが、この匂いは嗅いだことがなかった。  食べる気でいたサンドイッチをカバンに入れて隠す。  耳をすますとグルルルル⋯⋯。といった唸り声、吠え声が聞こえて来る。 「やめろ!」  悲痛な叫び声が森の中を貫いた。人が野生動物に襲われているのだろうか? 幸いにもカバンにはお父さんが持たせてくれた護身用の獣痺れ薬が入っているので助けることはできそうだ。 「ブナの木さん、もしかしてあの声って野生動物に⋯⋯? でも、優しいはずなのに」 「⋯⋯うーん、あり得るかもしれないな。もしかしたら縄張りに入ってしまったのかもしれない」 「それなら怒っても仕方がないよね⋯⋯。あ、間違えちゃったのかな? それなら誤解を解かないといけないね」  声が漏れないように口を手で押さえながら声のした方向へ向かう。方向は森の奥のようだ。いつもは温厚な彼等の聞いたことのない声が聞こえて少し怖い。  足音を立てないように歩いても、ザクッ、ザクッと音が少し出てしまう。歩いている間もその声は響いていた。  ⋯⋯しばらく歩いていると、何かが動いているのが遠目に見えた。  少し近づき藪の中から覗いてみると、五人の灰色の獣人が騒いでいた。  一人に対して滝のように浴びせられる罵声、暴力。目を覆いたくなる。四匹の黄金の瞳は一人を虐げるのを楽しんでいるようだ。  襲われていたのは人ではないし、もしかしたら獣人にとっては当たり前の出来事なのかもしれない。  無視して帰ろうかとも思ったが、何もせずに去るのは気分がいいものではない。それに、人助けはいつか自分に返ってくるとお父さんはよく話していた。  緊張しながらも、カバンの中を漁り赤黒い液体の入ったガラス瓶を取り出す。  彼も巻き込んでしまうが、背に腹は変えられない。瓶の蓋を開け、五人に向けて投げ込んだ。  五人全員に対し効果はてきめんだったようで、全員鼻を抑えて苦しんでいた。 「こっちに来て、速く!」  虐められていた一人の手を強く引っ張るが、どうやら意識が半分飛んでいるようだ。  仕方なく、彼を引きずりながらその場から離れた。 「ノイバラさん、ちょっと開けてくれるかな?」  この場所なら匂いで追われてもバラのトゲが守ってくれるだろう。  もっとも、あの薬の効果で鼻はしばらく役に立たないので追われることもないと思うけど。 「⋯⋯その子、獣人でしょう? 人であるあなたが助ける義理はないでしょうに」 「⋯⋯差別はしちゃダメなんだよ。それに無視するのも気分が悪いからさ。⋯⋯開けてくれてありがとう。もし追っ手が来たら追っ払ってくれるかな?」 「ええ、構わないけれども。あまり情がわかないようにした方がいいわよ。辛くなるのはあなただから」  それだけ言うと、ノイバラは入り口を閉ざした。それよりも、獣人は初めて見る。お父さんは仕事で見たことがあるらしいが、この村にもいるなんて思わなかった。 「ねえ、生きてる? もしかして、死んじゃったかな?」  肩を揺すると半目でこちらを見た。どうやら無事だったらしい。 「ああ、生きてた。てっきり死んじゃったかと」  安心しているこっちとは裏腹に彼は怯えたような目でこちらを睨んでくる。怯えだけでなく、静かな怒りも感じられた。けれど、何も言葉にしないので僕には何を伝えたいのか分からない。 「黙ってても何も伝わらないから。何か話してくれないかな⋯⋯」  しばらく待っても状況は何一つ変わらない。ただひたすら沈黙が続くので不思議に思っていたら、彼は今痺れ薬の効果で体が動かないことを思い出した。 「あ、ごめん。薬の効果で話せないのか。じゃあ⋯⋯臭いけどこれ飲んで」  痛み止めの魔法をかけて赤い花を摘む。  独特の香りが鼻腔に入り、脳を貫く。  彼はその香りが苦手なのか涙目で首を振る。なんとか口に近づけても力が強くすぐに遠ざけられてしまう。拉致が開かない。 「⋯⋯。そのままだと死んじゃう」  本当はそんなことないのだが、このままではずっと彼は身体が動かせない。冷たく呟くと、彼の顔は生気が抜けたようになって脱力した。  その隙をついて彼の口に花弁を突っ込む。 「これで少しずつ楽になると思うから。少し待っててね」  彼を草の上に寝かせて、マスカレートの実を摘みに行く。僕の大好物を彼は気に入ってくれるだろうか?  なかなか起き上がらないのでサンドイッチを頬張っていると、彼はむくりと体を起こした。  どうやら痺れは治ったようだ。死ななくて良かったと心の底から安堵する。  それも束の間彼はこちらにズンズンと近づいてくる。 「おい! お前っ⋯⋯。いきなり何するんだ!」  目の前でみると案外図体がでかい。  周りの獣人の大きさに比べると小さく見えたが、実際に目の前でみると威圧感を放つ。 「何って、助けたんだけど⋯⋯」  少し怖い顔でこちらを睨むので少しこちらが悪いことをしてしまったように思う。けれど、彼の方も助けられたと分かっているのか、一歩たじろぐ。 「と、とりあえず礼は言う⋯⋯。ありがとう」 「うん」 「⋯⋯それじゃ、もう行く。ありがと——」  お腹の音がどこからか鳴った。  少しの空白のあと、恥ずかしそうにサンドイッチに目を向けている。  どうやらお腹の音は彼から発せられたものらしい。 「サンドイッチ、食べる? その様子だとまだ飯食べてないでしょ?」  そっと静かにサンドイッチを彼に向けた。  すぐに受け取ると思ったけれど、意外にも彼は首を横に振った。まだ信頼されていないのだろうか? 「いや、そこまで面倒見てもらうのは申し訳ない。それこそお前は人間だろ。獣人と一緒にいて大丈夫なのか? ほら、その⋯⋯」  困惑したように、そして悲しそうに目を泳がしている。一緒にいることに遠慮しているのかもしれない。  世界には獣人を毛嫌いしている人もいるらしい。けど、お父さんとお母さんによるとそれは間違っている。  学校で習うこと全てが正しいわけじゃないことはよく聞かされていた。ほんの少し相手のことを知れば、学校も変わるのに。と、お父さんはよく呟いている。 「そんなこと気にしないでさ、これ食べなよ。ほら、ね?」  戸惑う様子を見せながらも、彼はサンドイッチを口に運んだ。口に含んだ瞬間の顔はとても幸せそうで、少しだけ笑ってしまった。 「⋯⋯でな! 俺は強い剣士になるんだ! そして悪い奴らをやっつけて、この世界を平和にするんだ!」  しばらく話を聞きつつ空を見上げてみると、赤色に染まっていた。もう帰る時間だ。 「あ、空が赤くなってきたから帰らないと」 「もう少しくらい大丈夫だろ! 暗くなったら俺が送ってやるよ」 「空が赤くなるのはね、家に帰る時間だよって教えてくれているんだよ。だから、もう帰らないといけないんだ」  そう言うと、彼は尻尾を下げて残念そうにしていた。表情が豊かなのに加えて尻尾も動き回るので手にとるように感情が分かる。見ていて面白い。 「そうなのか⋯⋯。じゃ、今日は楽しかったぜ!」 「僕も楽しかった。また明日会おうね!」 「あ⋯⋯。俺達、今日の夜には別のところに行くんだ。だから⋯⋯。そうそう、あの赤い実、食えるんだな! 初めて知ったぞ!」  マスカレートの実か。人間の間ではポピュラーな食べ物だが、馴染みのない食べ物だったようだ。僕の大好物を気に入ってくれたようでとても嬉しい。  それにしても、明日にはもう会えなくなるのがなにより残念だ。 「うん、今度あの子達みんなと食べて見なよ。それじゃ」 「あ、あと!魔法学校⋯⋯。きっとお前ならいけるって! お前、優しいし面白いからな」  手をそっと握られる。それに僕は握り返した。ふわふわの毛が心地いい。 「うん、頑張るよ。ありがとう! ⋯⋯君は、もういじめられないようにね」 「ああ、分かった。⋯⋯本当に帰るのか? せっかく仲良くなれたのに残念だ」  そんなことを言われると、帰りにくくなってしまう。でも、遅く帰って心配させるわけにもいかない。 「本当はもう少しいたいけど⋯⋯。帰るよ。ほら君も早く帰ったほうがいいよ! 森はすぐに暗くなるからさ」 「そうだな。じゃ、またいつか。⋯⋯いつかな!」  そう一言言って、茂みの中を駆けて行った。奥を覗いてみると、彼の姿はもうどこにもいなくなっていた。 「もしも今度あったらお菓子を持ってきてあげよっと」  彼も好きらしいマスカレート。それをお母さんにパイにしてもらおう。次はいつ会えるのだろうか。とても楽しみだ。 「ただいま! 今日ね、狼の獣人と会ったんだよ! サンドイッチ美味しかったって!」  ドアを開ければ暖かい空気が家の中を満たしている。ここが僕の一番大好きな場所。フロールリ村の僕の家。 「今度会ったらマスカレートパイを食べてもらいたいんだ! ね、明日作って作って!」 「あらあら、狼の獣人さんはいろんなところに行くから明日会うわけじゃないのでしょう? また会ったら作ってあげようね」  優しい僕のお母さん。キッチンからリズミカルに野菜を切る音がする。 「もしかして、その頃には僕も作れるようになるかな? 彼に作ってあげたいな」 「今度一緒に作ってみようか。それじゃあパイを作る練習。ネスロ、素敵なお皿を用意して!」  そう言うと食器棚の近くに大きなキノコが次々と生えて階段のようになる。僕はそれを登ってお皿をテーブルの上に並べた。 「ただいま⋯⋯」  玄関からお父さんの声がした。いつもと違って元気がなさそうだ。 「ただいまお父さん! 今日は魔法の研究いっぱいしたの?」 「⋯⋯ああ、新しい魔法薬の研究をたくさんしたから疲れたんだ。お母さんの美味しいご飯を食べて明日もまた頑張らないとな!」  いい香りがしてきた。今日はキノコと野菜たっぷりのあのホワイトシチューみたい! 「いただきまーす!」  美味しそうなシチューをスプーン一杯分頬張った。ミルクの香りがとってもとっても、まろやかだった。
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