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第十九話「事件の香り」
「この香り、どうでしょう?」
夕刻、今日作ったラベンダーの精油をもらったので試しに主人に香りを嗅いでもらう。蓋を開けると香るのはあの香り高いラベンダーの芳香。それを木綿のハンカチに数滴垂らし、軽く揉むとハンカチが香りをふんわりと身に纏った
しかし、あのお婆さんの言う通りこの街の人の好みではないようだ。主人は顔をしかめつつすこし申し訳なさそうに話す。
「⋯⋯あまり好きじゃないな。これ、ラベンダーかい? それにしては甘ったるい気がするし。⋯⋯なんだかイライラしてしまうな。ごめんよ、私は爽やかな香りの方が好きなんだ。」
お気に召さなかったようだ。このありさまでは鎮静作用は見込め無い。嫌いな香りによるストレスで逆効果をおよぼすだろう。
爽やかな香りといえばペパーミントが思い浮かぶが、もうすぐ冬になるので葉も少ない。精油が取れるほどの量は用意できないのでペパーミントを使う案も無くなった。
⋯⋯何か似た効能の別の植物はないものだろうか?
精油を蒸留するといえばハーブだろう。しかし、生憎今は冬を目前にしている。葉を落としたものが多い中知識の中から特徴にあった植物を見つけることは出来なかった。
気晴らしに畑へ出てみるとレタスの苗が夕日に照らされている。青々とした葉が美味しそうだ。クルリと巻いた葉はサラダにすると歯応えが楽しめるだろう。
ひんやりと冷えた風が野菜の甘味を増してくれている。ここの料理がとてもおいしいのは材料が新鮮であることも関係しているのかもしれない。
「へえ⋯⋯、どれもよく育ってるなぁ。娘さん、植物のお世話が上手みたい」
張りのある葉は陽を懸命に浴びてこれから訪れる冬に備えているのだろう。今日のご飯にもサラダとして出てくるのだろうか。とても楽しみだ。
植物の栽培はしたことがないのでまじまじと野菜を見ながら端の方まで歩いてみると、そこには古い小屋が建っていた。
小窓から覗くととクワやカマと言った道具が置かれているのが見える。道具小屋だろう。どれも古いものの丁寧に使われているのが分かった。
それと同時に、鼻にツンとくる香りがした。
香りのたった足元を見てみると、ちょうど影になる場所で細々とドクダミが生えていた。ほんのりと湿った土に根を伸ばし育っていたようだ。どうやら靴と擦れたようで、強烈な香りが辺りに立ち込める。
「⋯⋯閃いた」
魔法を一応かけてドクダミを毟る。しかし、僕がかけた魔法が効くはずもなく彼らの物凄い悲鳴に罪悪感が積もった。
「ごめんね⋯⋯」
僕にはどれほどの痛みが彼らを襲っているのか知ることはないだろうが、尋常でない叫び声からかなり痛むのだろう。それを想像するだけで摘むのが躊躇われる。
⋯⋯なんとか一通り摘み終え、出来るだけ急いで街へ向かう。この葉で精油を作ったらどうなるだろうか?
腕いっぱいのドクダミを抱え、街を歩く。
——カゴに入れてくればよかったとすこし後悔した。
独特な匂いが鼻につく。街を歩くたびにすれ違う人々にこちらをギョッとした目で見つめられるのが少し恥ずかしかった。
なんとか精油蒸留器のある小屋につき、ドアを勢いよく開ける。中にはラベンダーの香りがまだ残っていた。
「あら、もしかして今から何か作るのかい?」
「はい、これで」
摘んだドクダミを見せると、彼女は顔をしかめ鼻をつまみ、手で追い返すような仕草をされた。
「何そんな臭いもので精油作ろうとしてるんだい! 他のもので作りなさいな、臭い臭い⋯⋯」
ドクダミを持ってきたのには理由がある。一見とても臭いドクダミだが、加熱するとその匂いが軽減するのだ。
精油の蒸留をするにあたって蒸気を植物に当てているのを見た。よってこのドクダミは加熱されたものと似たような香りの精油を作ることができるようになるのではないかと予想できる。
「実はドクダミの香りって加熱すると臭くなくなるんです。なのでもしかしたら精油にしたら爽やかな香りになるのではないかと⋯⋯!」
にわかに信じられないと言った視線を向けられながらも僕は準備を始める。今日作った精油の作り方を頭に思い浮かべながら一つ一つ手順を進めていった。
「⋯⋯これで、よし!」
ジュッ音を立ててマッチに火をつけ、燃料に投げ込むと勢いよく炎が燃え広がる。椅子に腰掛けるとどっと疲れがこみ上げてきた。きっと宿とこの小屋を往復したからだろう。
最初はドクダミのキツい匂いが満ちていたが、僕の予想通りだんだんと爽やかな香りに入れ替わっているのが感じられた。
その香りに疲れも癒される感覚がした。
「あらま、本当だ。この匂い⋯⋯本当にドクダミの匂いなのかい?」
「そうですね⋯⋯。まさかここまでうまくいくとは」
それは青葉を彷彿とさせるしなやかな香り。臭気とは程遠いものだった。
「あの、この精油をさっきのラベンダーの精油に混ぜたらどうなると思います?」
「うーん、やったこともないから分からないねえ。でも臭くはならないと思うね」
あくまで予想に過ぎないが、トゥルーラベンダーの甘くまろやかな香りとドクダミの新緑のような香り。調和してラベンダーの甘ったるさの緩和ができるのでは⋯⋯。試すのがとても楽しみになった。
——蒸留が終わるまで談笑していると、彼女が不意に話を止めた。
「ところで、結構時間は経っているけれど家に帰らなくても平気なのかい?」
窓を覗くともう夕日は顔を出しておらず、街は暗がりに染まっていた。ぼんやり街灯の光が光の筋となっているのが綺麗だ。
「あ、大丈夫ですよ! 今は宿で寝泊まりしているので叱られたりとかはしないですから」
「そうかい? 街は明るいけど、絶対に油断しちゃダメ。気をつけるんだよ」
「そうですね、精油が盗まれないように気を付けます!」
ちょうど精油もできたようだ。それを瓶につめてもらう。香りがとてもよく、心が落ち着く。
「それじゃ、気をつけて帰るんだよ!」
「はーい! ありがとうございました」
小屋のドアを閉める。ここは少し街の外れのため街灯が少ないが、フロールリ村に比べれば全然明るい。目はすぐに慣れた。
秋も深まり暗くなるのが早い。もう夜のような暗さだ。寒さと暗さにすこし焦りを覚えて足を速める。
宿のおいしいご飯と温かな雰囲気をどこか楽しみにしている自分がいた。
畑に沿って歩き、住宅街の角を曲がった時だった。
——腹部に痛みが走る。
軽い吐き気のあと、脳がクラリと揺らいだ。どうやら腹部を殴打されたらしい。
目の前が残像のように二重三重に見える。
思考回路はその瞬間遮断された。
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