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第二十三話「僕の作戦」
彼に食事を運び、今日の自分の仕事は終わるはずだった。しかし、少しだけ心残りで最後に一度だけ顔を見ておこうと思ったのだ。
雑務をこなし、もう真夜中になった。起こさないように静かに部屋に入ると、すやすやと寝息を立てている小さな少年が横たわっていた。
まともに人の顔を見たのはいつぶりだろうか。この仕事に就いてすぐの頃、とある人間と沢山話をしてしまい仲良くなってしまった事があった。
楽しそうに自分の見てきたものを語るその姿に、俺は心を惹かれた。
⋯⋯結果、その後殺される運命であることを知り余計に苦しくなったのだが。
無性に懐かしい出来事を思い出し、ため息が溢れる。あの人だけでなく、他の人にも本当は無事に家に帰って欲しかった。しかし、それをするには知識も力も持っていなかった。
⋯⋯文字が覚えられたなら、どれほど人生が楽だったのだろう。
奴が書いた催涙薬を作るための薬草の特徴をまとめたメモ。それを初めて受け取った時、俺の腕は震えていた。
——文字がわからない。
そのせいで、沢山の人が死ぬことを知りながら食事を用意し、運び、誘拐するという仕事を選んだ。それしかできなかった。
捨てる予定の子供。いらない子。
親から告げられた最後の言葉が心の奥に突き刺さったまま抜けることがない。
最初は誘拐をするのも躊躇して、食事の用意の時に彼らと話をしたりした。
話すたびに情が湧く。みんな、みんな生きてきたドラマがあって、それを思い出したながら語る。
最後には皆死ぬのを知っているのに、話を聴き続けるのはとても苦しかった。
だから、もう何もしないことにした。冷たい部屋の中で置き去り、顔を合わせる自分に話しかけてこないように時には暴力を奮って恐怖を植えつけていった。
——ある日、魔法も使えない小さな子供が、こちらに交渉を持ちかけてきた。
子供ながらにどこか大人びた雰囲気を持つ瞳。憂いを帯びた背中。どこか自分と似たような境遇を持っているのではないかという考えを抱いた。
闇の中をがむしゃらに駆けていた中に、一筋の光が導いてくれるような感覚。それは、生まれて初めて触れた感覚だった。
もしも、この闇から脱出できたなら。
うなされている彼の頭に手を置き、手を握るとしばらくして落ち着いたのか静かになった。
すると彼は不意に起き上がる。勝手に触っていたことがバレたかと思いヒヤリと汗をかいた。
「⋯⋯なにしてるんですか」
そう言った顔は、少しだけ目に涙を浮かべていた。この子供は自分よりも強い。普通の人なら諦めるような状況からなんとか逃れて日常を取り返そうとしている。
少しだけ話をするとやはり眠いのかすぐに横になった。最後に顔をもう一度だけゆっくり眺めて、静かに部屋を去った。
いつもよりも騒がしい廊下、慌ただしい人々。遂に作戦実行の時がやってきた。本当に作戦が上手くいけばここから出る事ができるのか。ほんの少し前なら信じられなかった。
「⋯⋯何、ぼーっとしてるのさ。これからでしょ? いくよ」
ふと、手を握られる。不安だろう、怖いだろう。証拠に体毛もない小さな手足が震えている。
どうすればいいのか分からないけど、すこし強く握り返した。
「⋯⋯絶対に脱出するよ」
奴は一言呟くと、ニッと歯を見せて笑った。
廊下を渡って、会場の控室。僕はそこに連れていかれる。
周りには沢山の警備員。僕は彼らに囲まれている。予想通り、獣人だけでなく人間の警備員もいる。催涙薬を我慢して作った甲斐があった。
「話は聞いているだろうが、お前にはこれから殺し合いをしてもらう。タード、そいつを寄越せ」
アイコンタクトの後、僕の手を握っている彼が手を離す。その一瞬、誰にも僕の体が触れていない時。僕は隠し持っていた薬瓶を思いっきり床に叩きつけた。
急いで目を覆い成分の侵入を防ぐ。
キツイ匂いが一気に広がる。水分を多めに配合して飛び散りやすくしたのは間違いではなかった。
「クソッ、待て!」
小太りの男に掴みかかられる。水で薄くなった弊害か、効き目が弱かったようだ。計算外。体が大きく成分が足りなかったのか。
「ネスロ! お前は逃げろ!」
この絶望の地下室で共に過ごした彼が、小太りの男を引き剥がす。
「俺はもういい! 夢を見せてくれて、ありがとよ!」
そういうと彼は騒ぎを聞きつけた他の警備員に取り押さえられ、殴られ始めた。逃げるのを躊躇していると、彼はいきなり怒鳴り声を上げた。
「俺の人生の全部を無駄にすんじゃねぇ!」
それを聞いて、咄嗟に鞄を漁る。もしかしたら、催涙薬を撒けば彼も逃げられるかもしれない。最後の廊下で使うはずの瓶を力一杯投げつけた。昨日まで彼と一緒に叩きこんだ地図。それを頼りにただ走り続けた。頼みの綱の催涙薬は、もうない。
無我夢中で廊下を駆け抜ける。大変入り組んでいて、一つの選択ミスは行き止まりへたどり着いてしまう。
後ろからはあいも変わらず追手が追いかけてきている。人間の波を掻い潜り、地図を頭に思い浮かべながら走り続けた。
——あと一つの曲がり角で出口の階段だ。
急いで階段を駆け上がろうとしたが、そこは本来なら催涙薬で突破する場所だ。
つまり、警備が固く逃げる隙間も何もなかったのだ。
後ろからの追手に腕を掴まれる。それは作戦の失敗。つまり、この地下で死ぬことを示していた。
「⋯⋯このクソガキがっ!」
両腕を縛り上げられヒョイっと持ち上げられる。三日もかけた作戦も僕のせいで台無しだ。身を挺して守ってくれた彼にも合わせる顔がなくて、ただ俯いていることしかできなかった。
「⋯⋯他に何か持ってないか検査しろ」
そう言うと奴らは僕を荒々しく床へ投げつける。その衝撃をもろに受けてしまい思わず咳き込んだ。
最後に一度だけでもいいから、ケルにありがとうと言いたかったなぁとぼんやりと考えた。それは以前にも感じた覚えのある「諦め」の感情だった。
僕は昔も今も、変わっていなかったんだ。ただケルが居たから自分も強くなった気がしていたけど、一人なら何もできない。誰も救えない。人一人を笑顔にすることもできない。瞳を閉じ、ゆっくり開けてみてもこれは夢じゃない。これら全てが長い悪夢で、家族も、何もかも全てが元通りになっていることを期待した僕が馬鹿だったようだ。
我慢しきれなかった涙が目から溢れる。それを気づかれたくなくて、目を伏せた。
⋯⋯このままでは、本当に何も変わっていないじゃないか。運命に流されるままなんて絶対に嫌だ。
震える声を抑え、足で思いっきり警備員を蹴り飛ばす。
「このっ! 離せっ!」
唐突の攻撃に怯んだようだ。しかしそれも一時的なもののようで一度隙を見せた奴らも再びこちらに向かってくる。
決してこいつらの思うままにはさせない。全員の顔を睨み続けた。
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