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第三十一話「マリジのラベンダー精油」
「うぅ〜、寒い寒い⋯⋯!」
足がもつれそうになるほど降り積もった雪の中、鉄バケツを持って池に赴く。そう、精油を蒸留するためだ。真っ白な地面の上を歩くとギュッと雪が圧縮され、その音が心地いい。
触った所井戸はこの寒さで固く凍り付いてしまっているようだ、このままでは水が汲めないので溶かすしかない。
「ケルさん! この井戸の氷を溶かしてくれませんか?」
「おう、任せろ」
そう言うと彼は井戸に手をかざして深呼吸をした。あれからしばらくした後、なんと彼は魔法を習得したのだ。僕の使っていた魔導書と少しの指導を経て火の魔法を操るようになった。
「インフランマ」
掌から炎が噴き出し、少しずつ氷の表面を溶かす。威力も申し分なくジワジワ氷が溶けていく。水が汲めるほどの穴を開けると、彼は手のひらを下げた。
それを見ていると、ふといつの日かの出来事を思い出す。
「しかし不思議ですね。どうしてあの時は僕も魔法が使えたんでしょう」
ものすごく小さいながらも火種を生み出すことに成功した後日、もう一度魔法をパンにかけてみたものの魔法を使う事は出来なかった。最早あれは幻だったのではないかと思える。
「いつかまた使えるようになる日が来るだろう。それまで気長に練習しようぜ」
気を取り直して井戸から水を汲むと、冷たさがバケツを伝って手が痺れる。霜焼けができてしまいそうだ。
「⋯⋯よし、これで蒸留できるね。それにしてもブレンドかい。よくドクダミの精油を混ぜるだなんて思いついたよ」
一ヶ月ほど前に宿屋で作ってみたラベンダーとドクダミの精油を混ぜたものが部屋の芳香剤として使われてから評判が広がったようで、宿の経営が以前よりも順調になったらしい。加えてこの精油単体の販売も順風満帆。各地で売り切れ続出だそうだ。
「この機械をこんなに動かすなんて何年ぶりだろうね。はあ、二人ともおつかれ。これでも飲みな!」
マッチ殻を消して振り返ると、温かなハニーミルクが出来上がっていた。さっそく椅子に腰掛け一口飲むと、体の中心からポカポカと熱を発するように感じる。冬の堪える寒さにはやはりジンジャーがぴったりだ。
「あー、あったかい⋯⋯。ジンジャーの効果でしょうか、内側から温まる気がします」
なんなら少し暑いくらいだ。一枚服を脱いでもちょうど良さそうにも思える。ジンジャーにここまでの効果があるなら暖房も必要ないように感じた。
「あら、今日はジンジャーを入れ忘れたんだけど」
その言葉を聞いてコートを脱ぐ手が思わず止まる。ケルの方をみると目を合わせないようにしつつニヤニヤと笑っている。
「⋯⋯もしかして!」
立ち上がり、椅子を見てみると円状の紋章がぼんやりと光を纏いながら浮かび上がっている。魔法陣だ。
「どうりで暑いと思ったら! タンペラムの魔法陣!」
これもおそらくケルによるものだろう。僕の魔導書を貸して使い方を少し教えたところいつのまにか詠唱魔法だけでなく魔法陣を必要とする陣型魔法ができるようにまで成長していた。我ながら教えるのが上手い。⋯⋯のか?
「⋯⋯僕よりも魔法を扱えるってどう言うことですか」
「いやぁ、やっと陣型魔法が使えたぜ。やっぱり面白いな、魔法は」
喉で笑いながら指をパチンと鳴らすと魔法陣は縮小しながら回り始め、最後には消滅した。キラリと名残惜しそうに魔法陣が光の粒を数個バラまく演出付きで。
「どうして外にいる時に僕に使わなかったのさ⋯⋯。本当紛らわしいことするなぁ」
これを使ってくれれば僕があんな寒い中凍える必要がなかったのに。
——大体! どうして魔法が使えないことがコンプレックスの僕に見せびらかすように魔法を使うのさ!
「これまた芸達者な獣人さんだこと。力仕事に剣技に、魔法ねぇ!」
ハッハッハッと大きな声で笑う彼女は遠い村からやって来たらしく、この街で育った人に比べて差別的ではない。褒められて、ケルは少し照れているようだ。
「これもネスロに教えてもらわなかったら使えなかったんだ。もしも出会わなかったら俺は一生魔法を使うことなんてできなかった。実はありがたいと思ってるぞ?」
どこかヘラヘラとした表情を浮かべたまま肘で小突かれる。本当にありがたいと思っているのだろうか。
「ありがたいと思っている相手を実験台にしないでください!」
少し苛立ちを覚えつつハニーミルクを口に含む。心が休まるのが感じられた。
ハニーミルクを嗜んだ後はこれからの生産について話したり、手遊びをして時間を潰した。次第に立ち込めていく精油の香りが出来上がりをワクワクとさせる。
「⋯⋯よし、それじゃあさっそく瓶に詰めるよ! ネスロとケルは瓶を持ってきてくれるかい?」
出来上がった精油を集めて瓶に入れる。これはドクダミの精油と混ぜ、宿に持っていくものと売り物にするものに仕分けをする。
「はあ、私のラベンダーが沢山の家で使われているんだね⋯⋯!」
夢のようだよ、とため息ながらに彼女は瓶を仕分けている。
「それもかなりの大人気なようで、売りに出したものは即完売らしいですよ。スパイクラベンダーとは違って甘い香りだけどしつこくないのが人気の秘訣みたいです」
秋に収穫したラベンダーとドクダミを乾燥させ、少しずつ蒸留をして新鮮な精油を作り街の薬屋に売り始めた。マリジのラベンダー精油として今デヴァリニッジで大流行している。
「私だけで作ったわけじゃないのにマリジのラベンダー精油なんて⋯⋯。マリジとネスロとケルのラベンダー精油にしたいくらいさ」
「マリジとネスロのラベンダー精油だと語感が悪いですしこれでいいんですよ」
そう言うとケルが少し不満げな声でこちらに抗議してきた。
「おい、なんで俺の名前が入っていないんだよ」
タンペラムの魔法陣へのささやかな仕返しとともに宿屋に持っていく精油を鞄に詰める。これが今度は部屋の芳香剤になるのだ。
「それではまた来週! よろしくお願いします!」
手を振って小屋を離れる。マリジおばさんは寒い中でもずっと手を振り続けていた。
「それにしても、寒いですね」
刺すような冷たい風。三角帽子が飛んで行ってしまわないように手で押さえる。
「⋯⋯そういえば、ここでも長く過ごしましたね」
そうため息まじりに口に出すと、プッと吹き出す音が隣から聞こえた。少しムッとして顔を見ると彼は抑えることなく笑う。
「いや、この秋に来たばっかりなのにそれは長く過ごしたと言えるのかと思ったんだ。あと、見た目ちっこいのに年寄りみたいに悟ったような顔して口に出すのもなんか笑える」
目に涙を浮かべるほどにあまりにひどく笑うのでこちらが恥ずかしくなって早歩きで宿に向かう。
「あ! おい待てよ! ごめんってごめんって」
その追いかける顔もまだまだ笑っているので謝っている気持ちも感じられない。
「待てって言われて待つ人なんていませんよ〜!」
そう走っているとズルリ。嫌な感覚を足元に感じた。次に訪れる衝撃に備えるために目を閉じるがすぐに謎の浮遊感を感じた。
「バーカ。こんな雪道で走り回るからだ」
軽くあしらわれるように吊り下げられた状態になり、抵抗しようとするも手足が空を切るだけだった。
「⋯⋯僕のこと、子供扱いしてません?」
そう言ったあと、彼は童話に出てくる意地悪な狼みたいなにやけ顔で静かにうなずいた。
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