第三十八話「明日への不安」

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第三十八話「明日への不安」

 窓を全開にする。その途端に冷たい空気が一気にキッチンに入り込んできてとても寒い。ただでさえ足元はずっと寒いままなのに、換気をすることでその冷たい空気が部屋全体に満ちる。  この寒さが冬のいいところだとお父さんは言っていたけど、こればかりは賛成しかねる。 「換気しないといけないけど、すごく寒いなあ⋯⋯」  作るものが麻痺薬なので換気をしっかりと行わないと作業中に吸い込んでしまう。催涙薬ならば我慢して作り続けることも可能だが、これを吸入すると身体が動かなくなるので身体に薬が入ることを徹底して防がなければならない。  カゴから薬草を取り出し、息を止めながらゆっくりと乳鉢に加えてすり潰す。その途端薬草が泡立ち始め、液体状のものが生成し始める。飛散しないよう、ゆっくりと、慎重に⋯⋯。命に関わるものではないが、食事に混入したら大惨事だ。すぐさま身体は動かなくなり、手足が震える。  スープを飲もうとしていたらもっと悲惨だ。スプーンの上のスープはたちまち震える手によってポロポロと落ち、火傷を負わせるかもしれない。  今回は難なく完成することができたのでその心配は必要なさそうだ。 「⋯⋯よし! これを瓶に詰めてっと」  こぼさないようにゆっくりと瓶に液体のみを瓶に流し込む。ドロドロとした黄土色の液体。状態を見るに薬も失敗することなく作ることが出来たようだ。  このあとは水で希釈し撒いて使えるようにする。以前の催涙薬ように効果が薄くならないように、慎重に水を加える。最初は多めに。そして、だんだん注ぎ足す水を減らして⋯⋯。  キュッと蓋を閉め、ゆらゆらと瓶を揺らすとサラサラと瓶の中で麻痺薬が動く。これくらいならしっかり撒けるだろう。 「⋯⋯はぁ! これで完成だ」  我ながら上手に作ることが出来た。効き目もきっとバッチリだろう。流石に他人で治験するわけにもいかないので蓋を慎重に開ける。  瓶の口を手で仰いで匂いを嗅いでみると、手がかすかにピリピリとする。効果はバッチリだ。 「よしよし、これなら奴にも効くはず!」  再び蓋を閉めようとした時、薬の効きが良すぎたのか手から瓶がツルリと抜け、滑り落ちる。 「あっ!」  思わず目を閉じる。 ——しかし思ったような音がすることはなかった。 「大丈夫か?」  目を開けるとそこには瓶を手に持ったケルがなぜか立っていた。 「へ? あ、ありがとう⋯⋯?」  何が起きたのかイマイチ分からず言葉が詰まる。瓶を落とすことを見越してここに来た⋯⋯。なんてことはないと思うが、それにしてはあまりにも都合が良すぎるタイミングだった。 「⋯⋯ほら、気を付けろよ」 「うん⋯⋯」  そう言うと彼は何もなかったかのようにキッチンを出て行く。なぜここに来たのかも分からない。 ——たまたま通りかかった時に、たまたま僕が瓶を落としそうになっただけだ。  それ以外のなんでもないだろう。  しかし、心に残るのは何故だろう。彼は都合が良い時に現れる気がする。ロストスカルに殺されそうになった時も、地下で僕が追っ手に捕まった時も、こちらの行動を予知しているようで不思議に思うことが数回あった。  勘がいいのだろうか。それとも⋯⋯。  ぼんやりと考えをまとめてみても、確信の持てる答えは出なかった。  キッチンから出ると、リリアさんに後ろから肩を軽く叩かれた。後ろを振り返って見ると、少し心配そうな様子だ。 「あの、ケルさんから聞いたのですが⋯⋯。明日、決闘だなんて」 「うん、成り行きで決まってしまって。でも、僕もできるだけ頑張るので。それに、殺し合いをするわけではないので⋯⋯」 「⋯⋯そうなんですね。それなら、なにか手伝えることはありますか?」  手伝える事。と言っても、特に思いつかない。しかし、何も無いというのはあまりに冷たいのでここはお菓子を作ってもらおう。 「それじゃあ⋯⋯。なにかお菓子を焼いてくれますか? すこし甘いものが食べたくて!」 「分かりました! では、クッキーにしましょう」  嬉しそうにキッチンに入る彼女を見つつ明日のことを思うとため息が出る。 「明日、大丈夫かな⋯⋯」  ただ心が圧縮された不安の塊で重くのしかかっていた。  しばらく机に伏せていると、クッキーの香ばしい香りが漂い始める。すると、どこからか騒がしそうな足音がしてきた。 「あ! クッキーの匂いがする!」  ドタドタと階段を降りる音が聞こえる。クッキーのいい匂いを嗅ぎつけて来たようだ。 「ネスロばっかりクッキー食べるのずるーい!」 「内緒にするなんて酷いぞ!」  次々に不満の声を上げられる。話の論点がクッキーなのが可愛らしい。思わず笑みが溢れる。 「クッキー焼けましたよー⋯⋯。って、可愛らしい子がたくさん」  お皿に並んだ美味しそうな焼き立てのクッキー。一つ摘んで口に入れると、小麦粉と砂糖、卵が調和した豊かな味がバターの風味とともに口内に広がった。 「美味し〜!」  次々と好評の声が上がる。明日の不安も少し薄れたような気がした。 ⋯⋯もしも作戦が失敗したら、第二プランとしてイーグニスを使おう。それが自分ができる抵抗だ。  クッキーを紙に包んで一枚鞄に忍ばせた。火種にするにはもったいないが、無事に元々の作戦がうまくいけばあとでゆっくりと食べればいい。  窓を見ると、もう辺りは暗くなり始めている。朝からいろいろなことがありすぎてあっという間に一日が過ぎたようだ。残されたタイムリミットに僕は不安と焦りを増幅させるだけだった。
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