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ーー
「伊藤菫?あぁ、もしかして倉持菫ちゃんのこと?伊藤さんというお宅に引き取られた」
翌週の土曜、午前中に休みを取ってくれた綾人さんと二人で、伊藤さんが育った児童養護施設へとやってきた。
伊藤さんのことを覚えているという年配の女性職員さんが、私が伊藤さんの妹だと知ると応接室らしき部屋に案内してくれた。
「ありがとうございます」
スムーズに話を聞いてもらえたことに、内心驚く。妹だと名乗りはしたけれど、それを示す証拠は見せていないのに。
そんな心情が顔に出ていたのか、その女性職員さんが柔らかな瞳で私を見つめた。
「菫ちゃんの小さな頃に、似ていると思ったんです」
「私が…」
今の彼女と私は、似ているとは思えない。
「目元なんて特に。可愛らしくて、とても優しい子でした」
「私は姉のことを、何も知りません。どんな些細なことでもいいので、教えてほしいんです」
「…本当に、優しい子でした」
私を視線を向けているようで、どこか遠い場所を見つめてる雰囲気だった。
伊藤さんを、思い出しているのかもしれない。
「その優しさに、私は甘えてしまったんです。取り返しのつかないことを、してしまいました」
「取り返しのつかないこと?」
「成長した菫ちゃんは、子供達のまとめ役でした。小さい子も菫ちゃんが大好きで、菫ちゃんも皆が大好きだといつも言っていました」
「それなら、彼女は幸せに生活していたのでは?」
「…前所長の件をご存知ですか?」
「はい、大まかな内容なら知っています」
「彼は、表向きは本当に善人でした。ですが本当は、性根の腐りきった悪魔です。あの男が何をしたのか、口に出すことさえおぞましい」
「…本当に」
「ある日私は、夜遅くあの男の部屋から出てくる菫ちゃんを見たんです。その時はまだ明るみにはでていなかったんですけれど、なぜか胸騒ぎがして私は声をかけました。こんな時間に、何かあったのかと。だけど彼女は、とびきりの笑顔で言ったんです。何もないよ、と」
「…」
「今思えば、笑顔の方が不自然なんですよね。何もないなら、普通にそう言えばいい。悟られないよう、わざと作った笑顔だった。あの時の私は、それに気付かなかった。菫ちゃんが伊藤さんのお宅に引き取られてすぐあの男の悪事が明るみに出て、私はあの夜のことを思い出しました。そしてすぐ、伊藤さんに菫ちゃんに会わせてほしいと頼んだんです。だけど、もう施設とは無関係だからと取り次いでもらえなかった」
「…」
「どうしても気になって、こっそり何度か会いに行ったんです。結局話すことはできなかったけれど、彼女の姿を見ることはできました。私が見た彼女は別人のようで…」
潤んだその瞳には、後悔の色が滲んで見えた。
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