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「詠史」
授業の終わった教室でホワイトボードの文字を書きとっていると、後ろの席から名前を呼ばれた。
「なんだよ」
「あー……あのさ」
言いにくそうにためらった鈴木を見て俺は顔をしかめた。その俺を見て鈴木が情けない顔になる。鈴木が悪いわけじゃないとは分かってはいても、自然、険しくなる顔をどうにもできなかった。
「放課後、来いって」
ため息をついてからノートを閉じる。誰かを介して伝えれば、俺が断れないと分かっていて鈴木を使ってくるあの男のやり方に腹が立つ。
「わかった。お前もあの人から頼まれても断っていいから」
「悪い」
手を合わせる鈴木を見ながら謝るべきは自分なのにと思う。後ろめたい俺は俯き気味に教室を出た。
そう、鈴木が悪いわけじゃない。なかなかあの人を断ち切れない俺が悪いんだ。そんなことを考えながらあの人の待っている部屋に入った。
「無視するなんてひどいじゃないか」
窓の外を見ていた男は振り返ると、柔和な顔をさらに崩しながら言った。俺はそれを忌々しい顔で見ている。今さらそんな顔されてもどうしようもないというのに。
几帳面に片付けられた机も、片隅に置かれたロッカーも、隣のビルしか見えない窓の風景も何も変わっていない。講師の個別の控室は殺風景だったけれど、この人がいるだけで俺にはいつも暖かく感じられた。それも今は過去のことだけれど。
「何かご用でしょうか、先生」
ことさら他人行儀に答えると、男は悲しそうに眉を下げた。その顔は卑怯だと思う。そう、その顔に騙されるんだ。
「誤解を解きたいんだ、君の」
白々しい、と思いながら俺は何も答えない。
「確かに私には婚約者がいたが、それは君と付き合う前から決まっていたことで」
「だから俺はたんなる浮気相手だったと?」
「そうじゃないよ」
悲しそうな顔をしたまま、男は笑った。その顔を見ていると腹が立つ。この男にも腹が立つけれど、何よりも許してしまいそうになる自分に腹が立って仕方ない。
「違うんだ。私が本当に好きなのは君なんだよ。婚約はしていたけれど、君に出会って、本気の恋に落ちてしまった。今では彼女よりも君のことを」
「でもあなたは結婚するんでしょう」
男は叱られた犬のような顔をして黙った。ふざけるな。惨めなのはこっちの方だというのに、まるで自分が捨てられたかのような顔をして。冗談じゃない。
「ともかく、俺にはもう話しかけないでください。他の誰か……鈴木に言うのもやめてください。俺が卒業するまで、お互い立場を間違えないようにしましょう」
「詠史君……」
俺の名前を呼んで悲しげに眼を伏せた男を置いて俺は部屋を出た。
高校を卒業後、調理師の資格を取るために専門学校へ入学した。手に職を、と思っていたことと、母がよく俺の料理をおいしいと食べてくれたことを覚えていたからだ。バイトをしながら学校へ通うのは大変だったけれど、やりたいことだったから少しも苦にならなかった。ただ時々一人暮らしの部屋に帰ると、いたたまれないほどの寂しさにさいなまれることがあった。
そんな時に出会ったのが小林誠司だった。この専門学校の講師でまだ三十前の柔和な男。恋人なんていたことのなかった俺はすぐにこの優しい男に溺れた。
小林にとってそれがただの浮気だったことなんて気が付きもせずに。
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