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ぼんやりと自転車をこいでいたせいで、電柱にぶつかりそうになったり車にひかれそうになりながらもなんとかアパートにたどり着く頃になって、俺はようやく家に待っている人がいることを思い出して憂鬱になった。
「本当に、いったいこれから、どうしたら……」
アパートの階段を上っていた俺が独り言を不自然に切ったのは、アパートの廊下に人がいたからだった。それも明らかに俺の部屋のドアの前に。
男はこちらに気が付いていないのか、ドアに背を預けて空を見ていた。自分よりも一回りほど上、三十を過ぎたくらいに見える。いったい誰だろうかと戸惑っていると、腕時計に目を落とした男は、俺に気が付いたのか顔をこちらに向けた。
切れ長の一重の目は、深い黒色だった。
近づいていくと、男は不思議そうに俺を見た。上背がある。俺はわずかに顎を上げた。
「あの、ここ俺の部屋ですけど」
「え?」
男は心底驚いたように俺を見た。瞬きをする。それからポストに貼られた表札を振り返った。表札には何も書かれていない。
「どなたにご用ですか?」
「あーっと……」
困ったように言葉を濁す男に俺はぴんときた。もしかするとこの男は。
「もしかして姉にご用ですか?」
姉が来たとたんに突然やってきた見知らぬ男。もしかしたら姉の知り合い、いや、姉が置いていった子供の父親なのではないか?
「君のお姉さんは」
「円です」
「そうか……」
男は何かを考えているように、俺の頭越しに遠くを見ている。その間に俺はまじまじと男を見ていた。髪は清潔感のある程度に短く整えられていて、染めているのか落ち着いた茶色だった。腕にしている時計も、羽織っているジャケットもよく似合っていて、俺の目には上質そうに見えた。少し冷たそうな印象で、あの人とは真逆だなと考えて自分の思考に嫌気がさす。無意識にあの男のことを考えているのが不愉快だった。
「……そうか、彼女はここじゃないのか」
しばらく考えに沈んでいた俺を戻したのは目の前の男だった。低い、大人の男の声。少し硬質で、やはり冷たそうに響いた。この男があの子供の父親なのだろうか。
「よろしければ少し話を聞かせてもらえませんか。俺も姉のことについて聞きたいので」
俺がそういうと男は少し驚いた顔をした。背後から足音が聞こえてくる。隣の住人が帰ってきたのかもしれない。男が口を開く。
「わかった。少し上がらせてもらえないか」
鞄から鍵を取り出して、ドアを開ける。
「どうぞ」
つい昨日までは来客なんて滅多になかったのに、今日部屋に三人目の客を上げることになった。
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