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日常
「げ、あれゴリの声じゃね」
遠くからゴリラのおたけびが聞こえて僕の顔は自然に歪む。隣にいた稲葉がグラウンドに向かって投げた煙草がきれいな放物線を描いて落ちていった。
「めんどくせえな」
僕達はつい先日、お隣の高校の生徒と血と汗にまみれた交流試合をして、生徒指導のゴリマッチョ体育教師こと松本教諭にこってり絞られたところだった。
「日を空けずのゴリのお説教とか、僕ヤダ」
「お前が下らねえことするからだろーが」
「かわいいいたずらじゃん」
十代の男なんてバカなことしか頭にない。ちょっとしたイタズラなんか鷹揚な態度でスルーしてほしい。そういう態度こそが子供に尊敬の念を抱かせるのだ。というかゴリの背負い投げヤダ。
稲葉が呆れた顔で僕を見る。
「かわいくはねえよ」
屋上へつながる階段を足音高く登る音が聞こえてくる。そろそろたどり着きそうなカンジ。
「ヨウ」
稲葉が僕を短く呼ぶ。そう呼ぶのはこいつだけだ。
超イケてるメンズではないけれど切れ長の目を緩ませて笑う稲葉は男臭くてかっこいい。なんでこいつがモテないのかと、僕は近隣女子の目は節穴だと思っている。まあバカなのは僕と変わらないんだけど。
「飛ぶぞ」
言うが早いかその長い腕を屋上の柵にかけると、体重を感じさせないジャンプで柵を飛び越えて消えた。 僕も吸っていたタバコを投げ捨てるとゴリマッチョが扉を開ける前になるべくなんでもないふうに、飛んだ
僕が稲葉と出会ったのは高校に入ってすぐだったけれど、今のようにつるむようになったのはそれからしばらくした夏休み前の頃だ。人見知りはしない性質の僕はしかし、顔が怖かったので稲葉とは話したことがなかった。
「センセー開けてー」
「寒くて死んじゃうよー」
屋上の柵を飛び越えてすぐ下にちょうど僕らの教室のベランダがある。飛び降りればそこに着地できる、というわけだ。最初にそれをしたのは稲葉だったけど、そのとき僕は本気で心臓が三秒ほど停止したと思う。恐る恐る下を覗けばこちらを見上げて笑う稲葉がいて、ああこいつはマジですごいと思った。
「先生カギー」
絶賛授業中の教室の窓をたたくと振り向いた古典の河村に向かって、僕と稲葉がニヤニヤしながら鍵を指し示す。老教師はため息を吐いて窓の近くまで来ると、鍵を開けることなく言った。
「お前らしばらく立っとれ」
「うわマジかよジジイ」
「開けろコラ」
老教師はそのままいつも通り誰も聞いちゃいない授業を再開する。クラスメイトたちはゲラゲラ笑っていて開ける気は一切ないらしい。僕は窓側にいた時代錯誤のゲームボーイ(モノクロ)をしている坊主頭の丈山に中指をたてる。さらに爆笑するハゲを後で必ず締めることにして、僕はベランダに背もたれる稲葉の横に並んだ。その指にはすでに半分くらいになった煙草。
「いやいやさすがに公開喫煙はやめようや」
「どうせ窓開かねえし捕まんねえだろ」
なんという図太い神経だと己を棚上げして見ていると、僕にくしゃくしゃになった箱を差し出す。
「公開喫煙はちょっと。内申書に響くので」
と、言ってるのに稲葉がくしゃくしゃの箱から飛び出た一本を無理矢理僕の口につっ込む。
「お前の内申書なんて無いほうがマシだっつの。それより」
多分それを女子に見せれば絶対モテるのにと僕が密かに思っている例の男臭い笑顔で稲葉が言った。
「捕まるときは一緒だろ」
これが僕らの日常である。
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