●お兄さんと海に行きたい!

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●お兄さんと海に行きたい!

 兄を海に誘ったら、なんで? と問い返された。恋人と海に行くのに理由なんか必要だろうか? 知玄がうーんと考えて、 「夏らしいことをしたいなぁと思って」  と答えれば、兄は畳に仰向けに寝そべったまま言った。 「してるじゃん。冷房の利いた部屋で、麦茶飲んでる」  それ!? 季節に無頓着なようでいて、兄は知玄には思いもよらない方法で、夏を楽しんでいたようだ。ところが、 「なんか海行きたくね?」 「いーねー行っちゃう!?」  兄はあっさり、仲間達と連れだって海へ行ってしまった。向かいの部屋のドアが開いて、兄と悪友達がにぎやかに階段を降りていった。改造マフラーの爆音が遠ざかっていく。 「マジですか!?」  時刻は深夜0時を回ったころだった。 「僕が誘った時にはあんなに嫌がっていたのにぃー!」  翌日、昼過ぎにやっと起き出した兄に泣きつくと、 「うるせぇなぁ、もぉー。わかったよ。兄ちゃんが連れてってやらぁ。ただし、気が向いた時にな」  兄は知玄に約束したが、それは果たされないまま九月になった。所詮ただの口約束かと思って諦めかけた頃、 「知玄、海行くぞ」  午前二時、唐突に叩き起こされた。   車のドアを開け、辺りに満ちる潮の匂いを胸一杯吸い込み、海に来たなあと実感する。 「この間来た時は、車も降りずに帰ったんだ。なんかもう面倒臭くなっちゃって」  兄とその仲間達らしい話だ。  雲のない空に星はほとんどなく、少し欠けた月が西の空に浮かんでいる。まだ薄暗い浜辺には、釣りや犬の散歩をする人影が遠くに見えるだけだ。  兄は雪駄を脱いで裸足になり、湿った砂の上を歩き始めた。知玄も真似して靴を脱ぎ、兄の側に並んだ。兄の右手にそっと触れると、兄は知玄の指に指を絡めてきた。ぎゅっと握れば、握り返してくる。細くて肉の薄い、少し湿り気を帯びた、兄の手指。軽く揺らしながら、ぶらぶらと歩く。兄弟だから、昔はたくさん手を繋げたけれど、兄弟だから、今はこうして遠くに来るでもしなければ、手を繋げない。潮騒を聴くだけで、ひたすら無言の時が続く。 「こういうの、いつぶりだろ」  兄がポツリと言った頃には、水平線が黄色く染まり始めていた。 「最後に家族で海に行ったの、僕が中三の夏ですよね」 「そうかも」 「あの時って、お兄さんの彼女さんも一緒じゃなかったですか?」 「だな。夜中に二人で民宿脱け出して、浜辺で遊んでた……って、何やきもち焼いてんだよ」 「別に、妬いてなんかないです」 「嘘こけ。まぁ……」  ほんの一瞬、水平線の一部が緑色に輝いて、太陽が顔を出し始めた。深い闇色の海面に、光の道が現れる。日はまばゆい光を放ちながらゆるゆると昇り、夜空を押し上げていく。 「こういうの、俺にはもう一生縁がないと思ってたから、ちょっと、嬉しいかも」  知玄は兄の手を強く引いた。兄の姿が、陽光の中に溶けてしまいそうに見えたのだ。
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